2019年7月14日日曜日

鷲田清一「折々のことば」1510を読んで

2019年7月3日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1510では
歌人・川野里子の歌集『歓待』から、次のことばが取り上げられています。

  わが母は襁褓とりかえられながら梟のやうに
  尊き目する

襁褓(むつき)は、おしめのことだそうです。私はこの歌で初めて知りました。

作者は老母を看取る過程で、担当の介護職の人々の献身的な世話を目の当たりに
して、感謝の念を持ってこの歌を詠んだそうです。

私もこの歌を読んで、亡き母の介護の日々を思い出しました。母は出来るだけ自宅
で過ごしたいと希望したので、何度も繰り返された入院の後は、リハビリを経て自宅
に帰れるようにしました。

勿論母にそれだけの体力、回復力があり、また最晩年でも自力でベットから起き上が
って排泄をしたり、自分で食事をとることが出来たので、私たちも自営業を営みながら
母の世話をすることが可能でした。その点では十分なことが出来たとは言えません
が、私もある程度母の希望に沿うことがかなって、安堵しています。

しかしその介護を通して、介護職の方々には本当にお世話になったと、感じました。
まだ外出出来た頃は、送り迎えから向こうでの世話もしていただいた、デイケア施設
のスタッフの人々、自宅でのリハビリや訪問整体の担当者の方、訪問入浴の職員の
人々。

それらの方々に介護を受けた後には、母は本当に満足したような様子をしていまし
た。それは静かに衰えゆく単調な日常に、しばしの安らぎを与えてくれる時間であった
ように、今は思います。看取っていただいた医師、看護師も含めて、人は死にゆく瞬間
まで、他者との関わりの中で生かされるものだと感じたことを、思い出しました。

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