2018年2月14日水曜日

鷲田清一「折々のことば」1017を読んで

2018年2月10日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1017では
19世紀米国の思想家ラルフ・ウォルドー・エマソンの『自己信頼』から、次のことばが
取り上げられています。

 善良さにも、ある程度の気骨は必要だ―そうでなければ、善良さは何も生まない。

人間にとって善良であるということは、しばしば錦の御旗になると感じます。

例えばある人が善良であると言えば、それは最良の価値で、その人の人間性も
すべて素晴らしいと思ってしまい勝ちです。

でもここで語られているように、善良であるということには、それを保証する責任が
伴うのでしょう。

曰く、何か重大な過失が起こった時、善意の行為だから仕方がないというのは
言い訳に過ぎませんし、同様に善良ということも生半可なことや、かりそめのこと
では、かえって相手を傷つけるたり、貶める場合があるのではないでしょうか?

「善良さ」と大上段に構えると私にはうまく言い表せませんが、これを仮に「優しさ」と
すると、どうでしょう。

相手に対する「優しさ」も盲目的なものや、責任を伴わないもの、あるいは自分本位
なものや、その場限りのものは、決して相手のためにならないでしょう。むしろ相手に
本当の意味で「優しさ」を示すためには、厳しい対応や突き放すような姿勢が求め
られることもあるはずです。

同様に、人が善良であるためには、それ相当の覚悟が伴う。上記のことばを読んで、
それを肝に銘じたいと思いました。



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