2017年5月22日月曜日

織田作之助著「夫婦善哉 正続他十二編」岩波文庫を読んで

かねてから一度読みたいと思っていた、織田作之助の短編集を読みました。やはり、
「夫婦善哉」が素晴らしいと感じました。

男女の人情の機微と人々の飾らぬ交情、庶民的な美味しいものを扱う飲食店を始め
として、随所に覗かれる大阪情緒、時に口ずさまれる浄瑠璃の詞、浪速の雰囲気が
たっぷりと詰まっています。その柔らかく温かみのある気分の中で、駄目な亭主と
しっかり者の女房のかりそめの夫婦生活が、面白おかしく語られるのです。

しかし、主に女房の蝶子の立場から語られるこの小説を読んでいると、必ずしも彼女
だけが一方的に正しく、亭主の柳吉だけに非がある訳ではないと、気付かされます。

蝶子は貧しい生い立ちにも明るく、芸妓としての才覚から売れっ子となりますが、
惚れた弱さ、親に勘当された妻子持ちの柳吉を自分の力で、一人前の男に仕立て
上げようとします。でも彼女の男勝りで一途な性格からすると、意志薄弱で遊び好き
とはいえ、問屋の跡取り息子でありながら、子供を置いて家を放り出された柳吉の
苦悩を理解することが出来ず、結果いくら蝶子が彼のために奔走しても、彼の遊蕩を
助長し、空回りすることになります。

他方柳吉は、本来は商才もないことはありませんが、蝶子に惚れて親に勘当され、
彼女と別れて家に帰りたい思いと、蝶子と一緒にいたい思いの間を揺れ動き、進退
窮まると自暴自棄になって、二人でやっと貯めたなけなしの金を遊興に使ってしまい
ます。

このように互いが互いのことを慕いながら、ちぐはぐな愚行を繰り返すこと。この
悲喜劇は世間の夫婦の有り様を、ある種誇張して描き出しているのではないか?

というのは、たとえ一緒に暮らす夫婦といえども、人間一人一人のものの感じ方、
価値観は同一ではなく、ましてやそれが男女である限り、更に二人の間には根本的な
差異が横たわっているのであり、その違いを超えて互いが互いを想うことこそ、夫婦に
とって大切なことであると、思われるからです。

またこの作品では、蝶子とその父種吉、母お辰の親子関係が人情味あふれて素晴ら
しく、特に貧しいといえども、陰に日に少しでも蝶子の役に立とうとする種吉の様子に、
あるべき親子の姿を見る思いがして、感動を覚えました。

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