2017年5月24日水曜日

鷲田清一「折々のことば」762を読んで

2017年5月23日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」762では
ドイツの哲学者オイゲン・ヘリゲルの「日本の弓術」から、次のことばが取り上げられて
います。

 実に、射られるということがどんな意味か、私は今こそ知ったのである。

私たち日本人にとっては、ある程度馴染の心の用い方であっても、西洋からの訪問者に
とっては正に驚きの、心身を一致させた境地の体現だったのでしょう。

私たちは元来、新しいことを学習するに際して、その理由付けよりも、先ず形を体に覚え
込ませるという方法で学ぶことが、習慣づけられて来ました。だからなぜそれを学ぶかと
いうことよりも、形を習得することによって、自ずからその帰結が見えて来るという態度で、
物事に取り組むことが自然であったように感じます。

しかし西洋的な考え方では、あることを学習するに際して、まずそれを目指す理由があり、
そこから目標としてのゴールが設定されて、そこに至る最短かつ効率的な技術を習得する
というプロセスで、物事に取り組まれるのが一般的であるように感じます。

なるほどこの方法の方がずっと合理的で、特に西洋由来の学問、スポーツを習熟する
ためには、こういうアプローチが最適であるように思われます。

一方、そのようにして得た知識、技術を厳しい状況の中で存分に活用する、例えば窮地
に立たされた場面や、大きなプレッシャーが掛かる状態で、持てる能力を最大限に発揮
するためには、強い精神力というものが必要になって来るでしょう。このような精神力を
涵養するためには、私たちが馴染んで来た形から心を学ぶという習得法が適していると、
私は信じます。

私が家業に就いた時、仕事は見て盗めと教えられました。最初は随分戸惑い、空回りの
繰り返しでした。しかし年月が経ち、仕事が体に馴染んでくるに至り、それは生半可では
なく、血肉の一部になってくれているように感じます。私には決して人より秀でたところは
ないけれど、父祖から引き継いだこの店の在り方には、幾ばくかの矜持を持っている
つもりです。

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