2017年5月20日土曜日

鷲田清一「折々のことば」756を読んで

2017年5月17日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」756では
ノンフィクション作家最相葉月の「セラピスト」から、次のことばが取り上げられています。

 沈黙は苦手である。まばたきの回数が増え、口の中が渇く。そのうち背中ががしがし
 とこわばり、後頭部が重くなる。

私はこの作家のノンフィクション作品が好きで、何冊か読んでいます。「セラピスト」も
読んだのですが、自分の心の中の切実な問題を端緒に、心理療法とは如何なるもので
あるかに切り込んで行く姿勢に、ノンフィクション作家としての誠実さを感じました。上記の
ことばも、作者のそのような資質から発せられた言葉なのでしょう。

私も若い頃には、内気で引っ込み思案な性格でした。家業に携わった当初は、お客さま
との応対や、仕入先、職人さんとのやり取りが苦手で、なかなか自信が持てませんでした。
特に人と面と向かって話をする時、会話の間に生まれる沈黙には、何とも言えない気まず
さを感じました。

それゆえに、出来るだけ沈黙の瞬間が訪れないように、やたらと必要以上の会話を続け
たり、言葉が途切れた際には、かつてならタバコを吸うとか、手近なものをもてあそぶとか、
随分落ち着きのない仕草をして、後から自己嫌悪に陥りました。

なぜそれだけ沈黙を恐れたかというと、今から考えるとその間に相手に不快な思いをさせ
たくないということだったのでしょうが、裏を返せば自分の人生経験の浅さから、相手が
その瞬間に自分と同じような気づまりを感じているに違いないと過剰に意識して、かえって
自分自身を精神的に追い詰めていたのだと思います。

今は会話の中の沈黙も、状況に応じて普通に受け入れることが出来、それに伴って相手
との言葉のやり取りも自然に行うことが出来るようになりましたが、しかし人と意思疎通を
図る場面では、かつての沈黙を恐れる心情の中に含まれていた、相手の気持ちをおもん
ばかる心は常に失わないようにしたいと、考えています。

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