2017年1月23日月曜日

川崎長太郎著「泡 裸木」講談社文芸文庫を読んで

実家の物置小屋に暮らし、赤貧のうちに生涯、花街を舞台にした私小説を書き続けた
作家の、一人の芸者を巡る、作家自身と著名な映画監督小津安二郎の恋情の絡み
を描く、いわゆる小津ものを集めた短編集です。

私が本書を手に取ったのは、近頃私小説という定義が随分曖昧になって来ていると
感じる中で、第二回芥川賞の候補となり、私小説の極北とも言われた川崎の作品を
読むことによって、本来の意味の私小説とはいかなるものであるかを知りたいと思った
からで、本書を読んで漠然とではありますが、その目的を果たすことが出来たと、感じ
ました。

まず本書収録の短編の特色は、著者の人生におけるある一つの経験を時間軸を変え
ながら、あるいは視点を違えて、繰り返し描いていることです。そしてそれぞれの作品
にはそれぞれの趣きがあり、さらには全体を一つの括りの作品と見た時には、ある時代
の情趣といったものが確かに立ち上って来ます。

このような効果が生み出される本書における前提条件は、第二次大戦、戦前、戦中の
花街が舞台であることであり、この当時にはまだ、花街文化とでも呼びうるものが存在
していたことです。

現代の京都に生きる私にとっても、祇園、先斗町といった花街や、舞妓、芸妓といった
その担い手は、すぐ近くに存在するものですが、私を含めた大多数の住民にとって、
彼女らは最早親密に関わる対象ではありません。しかし川崎長太郎が生きた時代には、
貧しい三文文士でさえ足を向ける場所であり、客と芸者の交情は、一つの庶民的な
男女の交わりの文化を形作っていたのです。

待合という密室の中での、金で買われる女と客の男の関係。しかしそれは単なる売買春
と限定されるものではなく、踊り、三味線などを伴う文化としての酒席のもてなしや、金
だけでは買うことの出来ない心の遣り取りというような、濃密な関係性が醸成されていた
のです。

本書ではそのような条件の下での、魅力的な一人の芸者に対する、時代の寵児小津と
売れない作家川崎の、長太郎の独り相撲と言っていいような恋の鞘当てが、繰り返し、
繊細に語られます。その結果、閉ざされた空間の中での個人的な男女の心の機微が、
時代の空気を刻印された普遍的な男と女の間の情感の描出へと、昇華されるのです。

また本書での恋敵川崎の目を通した、小津のプライベートな部分の赤裸々な描写は、
彼の芸術的に完成された映画からは想像出来ない、知られざる一面を垣間見せて
くれて貴重です。

川崎にとって私小説とは、生き方のその時々の細部を、克明に文章に残すことであった
のでしょう。

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