2014年4月17日木曜日

小林敏明著「廣松渉ー近代の超克」を読んで

正直、難解でした。おまけに私は、廣松がマルクス主義の論客で、
思想家であったことも、この本を読むまで知りませんでした。
したがって、この感想は読書ノートの域を出ません。

さて、本書の中で「近代」を定義する部分は、私にも明解な答えを
提示してくれるものとして理解出来ました。

曰く、「近代」とはまず、貨幣経済に支配された産業資本主義の
発達であり、これを支えるための国民国家の成立であり、それを
推進するための機械的合理主義の確立である、ということです。

その中で個人の主観が培養され、利潤の追求が至上の価値と
なり、個々の人間の間に疎外感が生まれる。

では、その「近代」を超克するためには、どのようにすれば
よいのか?

廣松は、第二次大戦中の思想哲学上の超克論を代表する、
京都学派の批判から、自らのマルクス主義に立脚した超克論を
展開する方法を選びます。

つまり京都学派は、西洋思想を超えた日本独自の東洋的思想の
確立を志向し、結果としてそれが戦争協力と見做され、他方廣松は
それを反面教師として、マルクス主義に希望を求めたのです。

私は本書から、廣松の解を読み取れませんでしたが、ソ連の崩壊、
現代の資本主義がマルクス経済学から多大な影響を受けている
という歴史的事実から、まだ明解な答えを見出せない、「近代の超克」
という来たるべき社会を、夢想するしかないのかもしれません。

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