2020年3月26日木曜日

鷲田清一「折々のことば」1757を読んで

2020年3月14日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1757では
作家三島由紀夫の『文章読本』から、次のことばが取り上げられています。

   昔の人は本のなかをじっくり自分の足で歩い
   たのです。

私自身随分遅読で、我ながら本を読んでいてうんざりとすることがあります。でも、
実際に本の文章から前後の脈絡を吟味して、行きつ戻りつし、あるいは一つの単語
に引っかかって前の文章に戻り、更には、その文章に表現された筋の上の展開の
意味が十分に理解出来なくて、1頁前をもう一度参照するなど、読み進めるには
かなり時間を要します。

そしてそのような読み方をしないと、本を読んだ気がしないのです。勿論、このような
遅々とした読書をしても、完全にその本を理解できた訳ではなく、しばらく時間が経つ
と細部は忘れてしまいます。でもこのような読み方をしたら、何かが自分の脳内に
染み入ったように思えるのです。

本当は、気に入った本でももっと早い速度で読んで、しかも何回も読むのがいいの
かも知れませ。でも私は、同じ本を繰り返し読むのが好きではないので、結果的にこの
ような読書法になってしまうのでしょう。

だから上記の文豪三島由紀夫のことばに、私は意を強くしました。こういう読書法には、
幾ばくか以上の意味がある。何かの拍子に昔読んだ本の内容、あるいはそこから導き
出された思いが立ち上がって来て、私に示唆を与えてくれたり、逆境の時に励まして
くれるのは、このような読書の功徳に違いない。

そう思い込んでいるからこそ、私は現代のようなスピードと効率優先の社会環境で、
あえて時代遅れの読書法を続けているのでしょう。だから当然、電子書籍に切り替える
つもりはありませんし、どこかでせかされる気がする、図書館で借りた本を読むことも
苦手です。

まだまだ時間の無駄遣いを続ける覚悟です。

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