2020年3月20日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1749を読んで

2020年3月6日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1749では
笑い飯・哲夫との共著『みんな、忙しすぎませんかね?』から、僧侶・釈撤宗の次の
ことばが取り上げられています。

   先に体に浸み込んでるものの扉が後で開くよ
   うな発見の喜びってありますよね。

私たち人間が社会的な存在である以上、文化や宗教にかかわることが、我々が
自覚的に身に付ける以前から心身に浸み込んでいて、上記のことばのように後に
ふとその意味に気づかされるということは、往々にあるように感じます。

例えば宗教に関することでは、このコラムにも例示されているように、仏前、神前で
の合掌は、私たちは幼い頃に見よう見真似で覚えて、それからは慣習的にそのような
場では手を合わせて来たけれど、ある時何かのことが大変ありがたいと感じた時に、
無意識に合掌している自分に気づいて、ああ、手を合わせるということはこういうこと
なのか、と合点がいく経験などがあります。

合掌の意味に気づいたこのような時には、それを教えてくれた祖父母、両親などが
誠心から孫子の幸せを願って、そのような教えを与えてくれたことに、改めて感謝
したくなります。

同様に、「正直であること」「もったいない」「人を思いやる」などの倫理的な徳目も、
それを習った時には実際の意味は理解できず、経験を通して次第に本当の意味が
分かるようになるということは、しばしばあるように思われます。

これらの経験が、その人の人間性を育むということは、間違いないでしょう。しかし
近年では、核家族化や子供の多忙さ、合理主義的なものの考え方が、このような
気づきに先立つ教えの機会を、少なくしているように感じられるのは、残念なこと
です。

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