2018年8月13日月曜日

中島岳志著「親鸞と日本主義」を読んで

第二次世界大戦への坂を転げ落ちる過程で、日本が天皇を中心としたナショナリズム
へと急速に染め上げられていったことは、歴史上の事実としてよく知られているところ
です。

しかし敗戦による劇的な価値の転換の後に生を受けた私には、その当時の我が国の
思想情況や人々のものの考え方がいかなるものであったか、なかなか実感として知る
ことが出来ません。でもそれ故に、大変興味深いことです。

例えば政治や教育メディアが、国粋主義に塗り込められていったのは、ある程度想像
がつきます。しかし近代においては神道と一線を画すると思われる仏教が、ナショナリ
ズムの高揚に強い影響を及ぼしたというのは、いかなることなのか?

以前に本で読んだ、満州国建国に重要な役割を果たした石原莞爾が、日蓮宗系の
新興宗教団体国柱会の有力な会員で、彼の思想がこの宗教の色濃い影響を受けて
いたことは知っていましたが、日本仏教の最もポピュラーな宗旨と言える浄土真宗の
教義が、いかにしてナショナリズムの高まりを補強する役割へと変化したかについて
は全く知らなかったので、本書を手に取りました。

この本を通読すると、歌人、小説家、あるいは思想的転向者として出発した人々が、
親鸞の思想を介してナショナリズムを喧伝、補強していく様子が見て取れます。また
浄土真宗大谷派の、ナショナリズムに寄り添う戦時教学の成立過程も示されます。

なぜそのような教義の解釈の変容が起きたかについては、著者が終章で、日本の
ナショナリズムの核をなす国体論が、絶対者の下の全ての者の平等と、絶対者と全て
の者の一体化を志向する国学に依拠し、親鸞思想の「他力」や「本願」が、国体論へと
接続することが容易であったと、結論づけています。

このように浄土真宗の教義は、仏を絶対的な存在として帰依し、世俗のいかなる権威
にもおもねらず、革新的であることを目指す故に、天皇を神と位置付け、全てに超越
すると規定する、国家体制に利用され易かったのでしょう。

しかし共産主義からの転向者が、親鸞思想を介して、ナショナリズムへの180度の転換
を遂げた例からも明らかなように、私たち日本人が、絶対的な存在に依存し易い心象
を持っていることも、また事実でしょう。先の大戦への反省として、私たちはこのことを
肝に銘じなければいけないと、思いました。

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