2018年4月16日月曜日

松山大耕「現代のことば 自由」を読んで

2018年4月11日付け京都新聞夕刊、松山大耕「現代のことば」では、「自由」と題して
山手線の車内広告が知らず知らずの内に乗客に指し示す、ステレオタイプの理想の
生き方という虚構から説き起こして、人間にとって幸せとは何か、ひいては人の自由
とは何かについて、考察しています。

この論を読み進めると確かに、車内広告が提示する、英会話、マンション、婚活、
予備校などの情報通りに自分の生き方を選択して、よしんば全て思い通りに成果を
得ることが出来たとしても、果たしてそれがその人にとって本当の幸せであるのか、
という疑念が浮かび上がって来ます。

私たちは狭い土地の上でひしめき合って暮らしながら、また膨大な情報が氾濫する
社会環境の中で、ついつい自身の生活を周囲と比較して、あるいはメディアが提示
する幸福の条件を、あたかも自分の幸せのために必須のものと勘違いして、日々
あくせくと働いている、という構図も見えて来ます。

自由という言葉の意味も筆者の指摘のように、解放という観念に過剰に囚われて、
何かの制約から解き放たれること、勝手気ままに振舞うことという解釈が大手を
振ってまかり通っていると、感じられます。

元来西洋的な概念としての自由にしても、それには責任や義務が必ず伴うもので
あり、それらの倫理的制約の上に初めて自由は存在するのだと、何かの本で読んだ
覚えがあります。

私たち日本人は、一神教的な絶対的な価値としての倫理観をイメージしにくいため
に、現代資本主義社会特有の見せかけの自由に振り回されて、物質的欲望や、皮相
な自己実現といった誘惑に因らわれやすいようにも感じます。

このような一見自由できらびやかな、誘惑の多い社会環境に暮らすが故に、我々は
なお一層、自分自身の心を冷静に保つ努力をしなければならないのでしょう。




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