2018年4月23日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1081を読んで

2018年4月16日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1081では
作家宮内悠介の4月2日付け朝刊の随想《「未知」はいくらでもある》から、次のことばが
取り上げられています。

 ぼくたちがいるのは、すべてがわかった世界ではなく、何がわからないかがわかり
 にくくなった世界なのだ。

確かにこのことばは、至言だと思います。

私たちが今現在暮らす社会では、メディアから情報が湯水のごとく入って来て、また
インターネットで検索すればたちどころに答えが表記されて、ともすれば何もかも
分かっている、正解がすぐそこにある、ように感じさせられてしまうきらいがあります。

でもちょっと立ち止まって考えると、一体全体何が分かっているのか、何の答えを手に
入れたのかと、いぶかしさが込み上げて来るはずです。

そこに残るのは、がらんどうのような空虚、戸惑い、虚しさだと、何度感じさせられた
ことでしょう?

また私たちは往々に、何もかも知っている、未来も見通せると錯覚してしまうと、自分に
全能感のようなものが宿っているとように思い込んでしまって、傲慢になって利己的な
振る舞いをしたり、逆に肥大化した自意識に対する自分という存在のちっぽけさに絶望
して、自暴自棄になったり、生きる気力を失ったりするものだと、思います。

要は生きて行く上で、自身の心を常に謙虚に保つこと、また実際の経験によって得た
知識、実感を何にも増して大切にすることが肝要ではないかと、上記のことばを読んで
感じました。

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