2018年4月9日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1067を読んで

2018年4月1日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1067では
英国のホスピスを訪れた神宮寺(長野)の住職に、緩和ケア専門ナースのジョアンが
「死を支える」ことの意味について答えたことばを、神宮寺の寺報「未来への遊行帳」
終刊号から引いています。

 3つ目の耳を持ち、彼ら(患者たち)が言っていることではなく、言わないでいること
 (言えないでいること)を聴きなさい

私は緩和ケアの現場というものを知りませんが、それに限らず往々に、人というもの
は自分が悩んでいる時、あるいは窮地に立たされた時など、自身が本当に困って
いること、訴えたいことなどをなかなか吐露出来ないものだと、感じることはよくあり
ます。

そういえば赤ちゃんがむずかる時、その子は何かを訴えているけれど、周りにいる
大人はそれがどういうことかをなかなか理解出来なくて、右往左往することがあり
ます。

無論赤ちゃんは言葉を発することが出来ないので、適切に意思を伝えることも叶わ
ず、一番身近な人、例えばお母さんがやっと到着し、日頃の様子からその子が今
何を訴えているかを推し量って対処することによって、とうとう泣き止むなどということ
が起こります。

上記のことばからすぐにそんな情景が思い浮かぶということは、三つ子の魂百までと
でも言うか、人は元来肝心の時に、自分が訴えるべきことを訴えることが出来難い、
存在なのかも知れません。

あるいは、本当に大切なこと、物事の本質に関わることは、言葉として表現出来ない
ものなのかも知れません。

人と人のコミュニケーションは奥深く、難しいものだと、改めて感じました。

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