2015年4月18日土曜日

漱石「それから」における高等遊民考

2015年4月16日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「それから」106年ぶり連載
(第十二回)の中に、代助の父親が定職に就かない彼に説教する、次の
言葉があります。

 「そう人間は自分だけを考えるべきではない。世の中もある。国家もある。
少しは人のために何かしなくっては心持のわるいものだ。御前だって、そう、
ぶらぶらしていて心持の好いはずはなかろう。そりゃ、下等社会の無教育の
ものなら格別だが、最高の教育を受けたものが、決して遊んでいて面白い
理由がない。学んだものは、実地に応用して始めて趣味が出るもの
だからな」
 「それは実業が厭なら厭で好い。何も金を儲けるだけが日本のために
なるとも限るまいから。金は取らんでも構わない。金のためにとやかくいうと
なると、御前も心持がわるかろう・・・」
 「三十になって遊民として、のらくらしているのは、如何にも不体裁だな」

この言葉を読んでいると、現代社会に生きる私たちは、高等遊民とは一体
いかなる存在かと考えてしまいます。

確かに現代の日本にも、大学生の就職難、オーバードクター現象などが
存在して、社会問題化しています。しかもこれらの問題は、高学歴にも
関わらず就職先が見つからず、生活が成り立たないという深刻な事態
を示しています。

ところが、代助のような高等遊民の場合、裕福な家庭環境に育ち、せっかく
高等教育を受けながら、あえて職に就かずぶらぶらしているという雰囲気が
あります。

もちろん当時、生活苦の庶民が多数存在して、代助の家族はごく少数の
恵まれた人々という社会背景が存在します。彼の父親も彼に、金は稼がなく
てもいいから、自分の能力を生かして何か社会の役に立て、と言っています。

この浮世離れした代助が、これからどんな苦悩を抱え、如何なる矛盾に
直面して行くのか、注目しながら、読み進めて行きたいと思います。

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