この映画は信じられないようですが、現実にあった話の脚色化作品です。
1960年代のアメリカ、悲しみを湛えた大きな瞳の子供を描く女性画家
マーガレットの絵を、彼女の夫ウォルターが自分の作品と偽って世間に
発表して、一躍脚光を浴び、以降彼女はその秘密を胸に秘して、自分の
作品と公表出来ない絵を描き続けます。それにも関わらず彼女は、その
作品がどんどん世評を高めて行く現実に苦悶しますが、遂には決意を
固めて・・・。
本来ならこの映画を観る者は、その場面で清々しいカタルシスを共有
出来るはずなのに、私には何か、釈然としない澱のようなものが残りました。
その理由を突き詰めてみると、ここに取り上げられたアメリカのポップ
アートの価値観が、私の心に思い描く従来からの絵画のそれと、少しずれて
いるためではないかと、思い至りました。
つまりマーガレットの絵は、一目見た時多くの人を惹きつける魅力を持って
いますが、それが世間に認められるためには、センセーショナルな
切っ掛けが必要だったのです。従来ならば画家は、その作品の力によって
徐々に評価を高めて行きますが、彼女の絵画は閃きによって、一瞬にして
画家を時代の寵児に押し上げたのです。
ですから、両者は自ずと性格を異にする。移ろい易い世間の評価を維持する
ためにも、マーガレットの絵画には常に、話題の提供が不可欠だったのです。
その点ウォルターは、画家のイメージ作りと作品の売り込みに対して、
天才的な能力を持っていました。彼が画家マーガレットのマネージャーに
徹していれば、二人は素晴らしいコンビになっていたでしょう。
しかし現実には、ウォルターには自己顕示欲と虚言壁があり、マーガレットは
まだ女性の地位が低い時代状況もあって、自分の意志を世間に示す手段を
持たなかった。それ故私には、このセンセーショナルな詐称事件が、彼の
一方的な罪によるものには思えないのです。
ただマーガレットは、ウォルターも芸術家仲間であると信じていたゆえに、彼に
自分の作品をゆだねたのだと、思われる節があります。二人が出会った時に
ウォルターが自らの描いた絵のように装った作品も、実は他人の絵である
ことに彼女が気付いた時の絶望に対しては、彼には十分に罪を償うべき
根拠があると、思いました。
0 件のコメント:
コメントを投稿