2025年9月25日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3411を読んで

2025年5月29日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」では 見立てによるミニチュア写真クリエーター田中達也による『みたてのくみたて』から、次の言葉が 取り上げられています。    みんなが知っているものを、知っている    別のなにかに変換するからこそ、共感し    てもらえます。 眼鏡が自転車になったり、ブロッコリーが大樹になったり、ドーナツをCT検査機に見せたり、この ような写真作品を見ると、思わずニヤッとさせられたり、お伽話のようなホンワカとした気分に させてくれます。 そもそも、それらのもの単品では見立ては成り立たないとしても、組み合わせたり、あるいは、小 さな人間の模型を配置して、微視的な視点でその情景を演出すれば、リアリティーが生まれるとこ ろが絶妙です。 田中自身は、「見立てとは、今あるものを組み合わせて新しい価値を生み出す術だ」と語っている そうですが、当意即妙であると感じます。 発想や、視点を変えれば、組み合わせによる新しい価値も生まれるということは、今日の同じ国の 中での経済格差による価値観の分裂や、人種間の対立などの問題にも、解決策を見出すヒントにな るかも知れません。

2025年9月18日木曜日

岡野八代著「ケアの倫理ーフェミニズムの政治思想」を読んで

本書を実際に読んでみるまで、私は恥ずかしながら、故人の介護に対する倫理について述べた書であると 思っていました。それで一通り終わった両親の介護を振り返るという意味でも、この本を手に取ったので すが、読み終わると個人的な介護について述べた本ではなく、歴史的に介護を担わされてきた人々、主に 女性の立場から、従来の社会、政治のあり方について異議を申し立てる活動の変遷、現状を語る書でした。 フェミニズムの政治思想の副題がついている所以ですが、ともかく当初の読書目的とは違うとはいえ、 予想だにしなかった、つまり私の社会や政治に対する考慮から抜け落ちていた視点を提示してくれたとい う意味で、興味深い読書であったと感じました。 本書の主題を一見して、そういうことに思い至らなかったということ自体が、私にフェミニズム的視点が 欠けている証左なのですが、私が教育を受けてきた頃には、フェミニズムという発想はまだありませんで した。父(男性)は外で働き、母(女性)は家庭で子を育てながら家事に勤しむ。そういう家父長的な 家族制度が広く行き渡る認識でした。 しかし、そのような常識に縛られた社会では、女性は抑圧され、権利を制限されることになります。この ような立場に甘んじることを良しとしない、革新的な女性の異議申し立てが、フェミニズム運動の端緒で すが、本書ではこの運動が主に、アメリカで広く認識され、発展する原動力として、ケアの倫理を思想の 中心に据えています。 つまり、介護を担う立場の人々の発想、思考を、従来の男性中心の社会で培われた思想哲学上の正義と 対等に対峙させることによって、来るべき未来に相応しい公正な社会思想、政治政策が生まれるように 仕向けるというものです。 さて、現実の日本社会の状況を見てみると、男女平等の指標が先進国で最下位であることからも分かるよ うに、決してフェミニズムの思想が広く認知されているとは言えないでしょう。しかし今日、少子化によ る人口減少や高齢化社会の到来、貧富の格差の拡大が、コロナ禍後更に顕著になって、弱い立場の人々を ケアする政治政策の重要性が増しています。 この事実は、女性の地位向上を目指す施策とも相まって、フェミニズム運動に影響を受けた政治思想が、 浸透し始めていることを示すに違いありません。フェミニズムの思想哲学は、先人の努力によって、着実 に地歩を固めつつあるのです。

2025年9月10日水曜日

2025年9月度「龍池町つくり委員会」開催

9月9日に9月度の「町つくり委員会」が開催されました。 今回はまず、8月30日に開催された、「龍池夏まつり」の結果報告ということで、京都国際マンガ ミュージアムの事務長勝島様より、参加者数が約500名で前回(2023年)より約一割増えたそうで、 コロナ禍前にはまだ及ばないまでも、回復傾向が顕著であるという嬉しい発表がありました。 催しの運営上は、プログラムのメニューが結果として予定よりも多くなったにも関わらず、進行は 時間通りスムーズにこなすことが出来たということで、やはり鷹山のお囃子が参加者の体験企画も あって、場を盛り上げるのに大いに役立ったという結論になりました。 その他にも、医健のバンドの演奏の時に、音が大きいという苦情の電話があったようですが、それ は例年のことで、一時のことでもあるので、ことさら次回改善すべき事柄でもないということでし た。 子供向けのゲームコーナーでは、スタッフの人数が少なく、子供が殺到した時にはスムーズにさば けなかったという報告が、実際に担当してくれた南先生グループのメンバーの一人からあり、この 点については、次回には人数の割り当てを増やす対策を取る必要があると感じました。 飲食のコーナーは、開催時間当初は長い行列が出来ましたが、次第に混雑も収まり、以降は待ち 時間も少なく飲食物を提供出来たようです。ただし、今回は催しの終了ぎりぎりまで、飲食物を 提供していたので、受け取った食券、金銭の集計、後片付けがの終了が大変遅くなり、次回は30分 前ぐらいに提供を終わらせることが出来ないかという、提案が勝島様からありました。これも改善 事項であると思われます。 今回の委員会は、夏祭りの総括でお開きとなりました。

2025年9月4日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3386を読んで

2025年4月23日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3386では 写真家島尾伸三の『魚は泳ぐ』から、次の言葉が取り上げられています。    狡さを訓練できない人は、すがるも    のを必要としていますね。 ここで言う狡さ(ずるさ)は、狡猾ということではなくて、処世術における器用さ、柔軟さ、 世慣れた対処法というニュアンスを含む言葉でしょう。 だから、真っ正直や、固定観念に囚われる頑固さなどは、これと対極の性向であると思われ ます。 このような意味の狡さを備えた人は、何事にも臨機応変に取り組み、周りの人との間に軋轢 を生まずに、世を渡って行くことが出来るのでしょう。そして、そういう人が、独立心をも 持ち合わせていると言えるのでしょう。 しかし私は反面、このような処世術に長けた人は、現実にもそれほどに生きて行く上で器用 な人が少ない故に、孤独感にさいなまれることも多いのではないかと思います。 人は誰も一人では生きて行けなくて、多くの人の助けがあってこそ生きて行けると思うので、 狡さもそこそこに、少し間の抜けたところもあってこそ、人として愛される人間ではないか と考えるのですが、いかがでしょう?

2025年8月28日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3380を読んで

2025年4月14日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3380では 俳人正岡子規の短歌集『子規歌集』から、次の言葉が取り上げられています。    夢さめて先ず開き見る新聞の予報に晴れ    とあるをよろこぶ 正岡子規が長い闘病生活を強いられたのは周知の事実なので、その俳人がこのような歌を 残したことには、簡単ではない意味があると感じられます。 その人の心を深い心労や心痛が支配している場合、人はなかなかささやかな喜びに、心を割 くゆとりがないと推測されます。 しかし子規は、毎日の天気のような、病床にある者にとってはほんの些事についても、喜び を見出し、それをしみじみとした調子で、歌にしたのでしょう。そこには、俳人ならではの 豊かな感性と、心のゆとりを感じさせます。 現在の効率優先で、社会的な疎外感に囚われやすい世の中において、日常に追い立てられて 生活している私たちも、得てして身の回りの些細なことに、喜びや感動を見出せ難くなって いるように思われます。 そのような自分の精神状態に、改めてきづかせてくれるという意味でも、この歌には、かけ がえのない価値があると思われます。

2025年8月21日木曜日

黒川創著「京都」を読んで

第69回毎日出版文化賞受賞作です。先般新聞の書評欄で、「京都<千年の都>の歴史」と共に、京都を知る ための書として記載されていたので、合わせて読みました。約10年前の刊行で、連作小説のそれぞれの作品 が回想として書かれているので、現在からは更に遠ざかった頃のこの町の様子を描いていることになります。 また、私自身の人生の時間は、これらの連作で取り上げられている時期と重なっている部分が多くあります が、京都市中心部の中京区の辺りに暮らしてきたので、本書の舞台が主に市街周辺部ということもあって、 生活実感が微妙にずれている部分もあります。 この連作集は、今記したようなそれぞれの地域(町)の記憶と共に、経済的に恵まれた階層ではない、庶民 の生活を描いています。 以上のような要因もあって、私が本書を読んでまず感じたのは、自分の長く暮らす京都という町の記憶を共有 する懐かしさと、同じ街に住みながら、知り得なかった庶民感情に今更触れた、ある種のうずきと言っても いい戸惑いでした。 この本を読んでいて私が誘われたのは、小学生時代の追憶でした。というのは、私はその頃、父が祖父母の 営む商店である実家から離れて暮らしていた関係で、この市の繁華街を校区に持つ小学校に通っていました。 校区内には花街を初め飲食店、風俗店、パチンコ店などが軒を連ね、しかも当時は今と違って職場と住居が 一緒だったので、種々の家業の家の子供でクラスが構成されていました。 そのような事情もあって、私は小学生でありながら友達の家へ遊びに行くという名目で、通常18歳未満立ち 入り禁止の場所に出入りしていたのです。これらの家の子供は、国籍が違っていたり、大人びていたり、世間 ずれしているように感じられる場合もありました。本書の主人公たちは、私には彼らと重なるように思われる ところがあります。恵まれない運命に翻弄され、生き方を制限され、それぞれ町の名も無い一員として生きて 行くというように。 京都という都市は長い歴史があるだけに、地域の記憶も、各人の出自の因縁も、重層的に重ねられていて、 複雑に絡み合っています。それが歴史的な街の世間というものだったのでしょう。 しかし最近では、中心部でも町内の人間関係が希薄になって、町民が市外に移り、代わりにマンション、宿泊 施設が増えて、町自体も表面的に取り繕われて平板化しています。最早、本書に描かれたような濃密な庶民の 暮らしも、遠い幻と言えるかも知れません。

2025年8月13日水曜日

2025年8月度「龍池町つくり委員会」開催

8月12日に、8月の「龍池町つくり委員会」が開催されました。今回は、8月30日に行われる「龍池夏祭り」での 町つくり委員会メンバーの役割分担を決めることが主要なテーマで、実際の準備は当日午後2時頃からテント張り 等を始めるので、参加できる委員はそれに準じてマンガミュージアムに集合することになりました。 また、京都外大の南先生のグループメンバーは、当日2名が参加できるということで、それぞれの時間の都合に 合わせて、設営手伝い、ゲームコーナーの手伝い等をしてもらうことになりました。 「龍池夏祭り」の天候等による開催の可否は、晴天時はグラウンドにて実施、雨天時はAVホールとミュージアム 館内において実施、ただし、台風の直撃の可能性がある天気予報が出た場合には、当日提供する食材の準備の 都合で、8月27日までに開催できるかどうかを判断する、という取り決めが確認されました。 また、進行上話が前後しますが、今年の祇園祭における委員会メンバーの取り組みの活動報告として、まず、 役行者山の手伝いをしてくれた南先生グループからは、厄除けちまきの制作を行ったこと、そのほか山にちなむ お守り、記念品等の販売の手伝いをしたことなどの報告がありました。 私と寺井委員は、誘致を計画する鷹山の日和神楽を実際に見学して、順路を進行する様子、また、休憩所での 接待の様子をつぶさに見て、実際に誘致する場合に、どのような準備をしなければならないかを考えていく上で 大いに参考になったという話を、報告しました。 9月3日に龍池学区大原学舎で実施される、もえぎ幼稚園の野外活動には、自治連の大原学舎の担当で、当委員会 の委員でもある長谷川委員が当日立ち会ってくださいますが、南先生グループからも2名に手伝っていただく ことになりました。