2026年4月9日木曜日
逢坂冬馬著「同志少女よ敵を撃て」を読んで
2022年の本屋大賞第1位の作品です。本書は刊行時、いたいけな16歳のロシア人の少女が、第二次世界大戦中
冷徹非情な狙撃兵となって、敵を次々と仕留めていくというセンセーショナルな設定が大きな話題となり、
読書界を賑わわせましたが、刊行後時を待たずして、ロシアがウクライナに侵攻する所謂ウクライナ戦争が
勃発し、現在も継続しているという状況が、更に物語の現実感を上書きする現象を引き起こしています。それ
故今回文庫化されて、また読者を着実に増やしていると思われます。
ストーリーの骨格は、ソ連に侵攻したナチスドイツの兵士一団に、母や村人を虐殺された少女セラフィマが、
復讐の念を糧として一流の狙撃手となり、若い女性だけで編成された狙撃小隊の一員として激戦地を巡り、
仲間を数人失いながらも遂には、母を射殺した敵狙撃兵を仕留めるという、エンターテイメント小説の王道の
ようなものですが、物語は直截的に筋書きを追うだけではなく、戦争という行為の悲惨さ、なかんずくその
渦中に巻き込まれた女性、子供など社会的弱者、あるいは、捕虜といった虐げられた立場の者たちへの非道さ
から、終戦後の精神的後遺症までを丹念に描いて、ストーリーの奥行きを広げています。
例えば、セラフィマは最初、復讐の念による敵への激しい憎悪を原動力として、厳しい訓練に耐え、射撃の腕
を磨いていきますが、初めて実際に敵とはいえ生身の人間に銃口を向け、相手の命を奪った時には、精神的な
動揺を来します。しかしその抵抗感を乗り越えた時、あるいは罪悪感が麻痺するようになって、ただ無心で
身体の標的に銃弾を命中させることに、快感を覚えるようになります。そしてこの感覚は、戦後平和な時代が
訪れてから、彼女の心を苛むのです。
また彼女は、女性を守るために戦うという信念を持っていましたが、女性の敵はドイツ兵に限りません。これ
以上詳しくは述べませんが、ここには弱い立場の者に向けられた正義の視線があります。現実の戦争の足音が
迫る中で、アクションの一部に現実離れして説得力に欠ける欠点はあるとはいえ、本書は、戦争とは何かを
改めて考えさせてくれる良書です。
2026年4月1日水曜日
「鷲田清一折々のことば」3485を読んで
2025年9月23日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3485では
プロダクトデザイナー秋田道夫の『センスの話』から、次の言葉が取り上げられています。
間違っても許容範囲。
つまり、「無駄遣いしていいお金」を「気持ちの予算」に組み込んでおけば、日々慌ただしい
暮らしの中で、心を穏やかに保つことが出来る、ということだそうです。
それは額の大小を問わず、常に少しの余裕を持つという意味で、これは時間管理の心得として
も言えることだと思います。
たまには、目一杯の頑張りや厳しい自己管理も必要だけれども、人間いつも全力投球では、
とても続きません。色々な部分で、少しゆとりや余白を持つことは、結果として最高のパフォ
ーマンスをすることにもつながります。
特に意志強固ではない私などは、趣味の時間や美味しいものを食べる至福の時を脳裏にちらつ
かせて、日々の業務に励んでいます。我ながら、軟弱であるとも思いますが、その方が肩肘張
らず、仕事に打ち込めると思っています。これも一つの処世法ではないかと考えています。
2026年3月25日水曜日
辻田真佐憲著「「あの戦争」は何だったのか」を読んで
現在の政治状況や国際関係を見ても、「あの戦争」(日中戦争から第二次世界大戦に至る戦争)は、我が国
の内政、外交に今なお大きな影響を及ぼしていると思われます。それで大きな関心を持って、本書を手に取
りました。
本書を読んでまず新鮮な切り口と感じたのは、最初に「あの戦争」はいつ始まったのかということを、取り
上げていることです。私が「あの戦争」について考える時想定するのは、せいぜい満州国建国、日華事変
から太平洋戦争に至る戦争です。
しかし人によっては、米英との開戦以降を「あの戦争」(第二次世界大戦)と想起するかも知れません。
ですが、私がそのような捉え方もあるかと刮目させられたのは、本書の著者がペリー来航以降の日本開国に
至る事件を、「あの戦争」の始まりと考える見方もあると提起しているところです。
なるほど、事に成否はさておき、もしそもように考えるならば、日本の行った一連の戦争が、一方的な侵略
行為であるという想定は、揺るがせられます。なぜならあの当時、長年海外との交流を最小限に控えてきた
我が国に、米国は最新鋭の軍艦の威力を見せつけて、有無を言わせず開国を迫ったからです。もしこの事件
を「あの戦争」の始まりと考えるなら、日本は軍事的に近代化した欧米列強の脅威に突き動かされて、結果
として一連の侵略行為を遂行したことになります。
つまり、日本の戦争行為の犯罪性が、幾分薄められるという理屈です。ここまで読んで私は、その見方の
斬新さには一定の評価をしながらも、著者は我が国の戦争の正当化を目論んでいるのではないかと、一瞬
いぶかりました。しかし以降の章を読み進めると、論は日本の立場、侵略されたアジア諸国の立場、アジア
における権益を巡って我が国と対立した欧米諸国の立場を、出来るだけ公正で、客観的な視点で考察し、「
あの戦争」の思想的、政治的偏向を伴わない姿を、浮かび上がらせようと努めています。
ここに至って、「あの戦争」の開始時期をペリー来航まで遡るべきことの可能性を巡る当初の提起は、歴史
を利害関係を超えた長く広い視野で見ることの必要性を、示していると気づかされます。
「あの戦争」に対する我が国の戦争責任の問題は、今なお根本的な命題としての議論の対象であり、国政を
左右する課題です。本書のようなこの問題に対する客観性を重視する捉え方は、日本の行く末を規定する
ためにも、益々必要になってくるように思われます。
2026年3月20日金曜日
中村稔著「束の間の幻影 銅版画家駒井哲郎の生涯」を読んで
私は銅版画が好きなので、勿論、我が国の代表的な銅版画家である、駒井のことを以前から知っていま
したし、彼の作品に興味を持って来ました。それで、本書を手に入れた訳ですが、長年読まずに置いて
いたのは、通り一遍な評伝に違いないと、高をくくっていたためかも知れません。
しかし実際に読んでみて、嬉しい意味で想像は覆されました。これも後に知りましたが、著者中村稔は、
本書で読売文学賞を受賞しています。正に読み応えのある、希有な版画家の一代記で、作品だけではな
く、彼に対する愛おしさが募り、もし彼が存命なら、泥酔したところは御免蒙りたいですが、一度お目
にかかりたかったという感慨を抱かせてくれました。
本書の魅力のベースになるところに、著者の技量は言うに及ばず、彼が生前の駒井と家族ぐるみの付き
合いであったことがあると思われます。著者は彼を親しい存在として敬愛していて、その才能や人物を
いたずらに美化してはいませんが、冷静な筆致で彼の優れたところと欠点を、懐旧の念を持って描き出
しいます。だからきっと、この一筋縄では行かない複雑な人間を、読者にも共感を抱かせる存在として、
浮かび上がらせることに成功していると思われます。
本書を読んで感じた駒井哲郎は、才能も含めて銅版画を遣るべくして生まれた人物。製氷業で成功した
父母の元裕福な家庭に育ち、慶応幼稚舎に入園してそのまま進学、学校生活にはあまり馴染めなかった
ものの、十四歳より版画を始める。東京美術学校に入学して以降、版画家を目指して研鑽を重ねて行く。
まるで、最初に定められた道を一筋に進んで行くように見えますが、彼が芸術家を志すとして、彼の
気質や性格が、銅版画家に向いていたように思われます。つまり、エッチングなどの腐蝕銅版画の技法
は、版に線を描いて銅販を腐蝕させ、出来上がった元版を紙に転写して作品を生み出す、間接的な表現
方法で、駒井の詩情に富んだ内省的な正確は、このような直接的ではなく、吟味を重ねて生み出す芸術
表現にこそ、力を発揮すると思われるからです。
彼は、自らに適した表現方法である銅版画を生涯愛し、当時は美術界で地位の低かった、この分野の
評価確立のために人生を捧げました。反面、その繊細な魂が浮世と折り合いを付ける代償として、彼は
過度の飲酒に溺れ、五十代の短い一生を終えることになりました。頁を閉じる時、私にも彼に対する
愛情が沸き起こって来ました。
2026年3月12日木曜日
2026年3月度「龍池町つくり委員会」開催
3月10日に、2026年第2回の「町つくり委員会」が開催されました。
2月の「町つくり委員会」は、懇親会を行いましたので、今回が第2回となります。
まず、3月7日に大原地区の町つくり委員会の委員の方々との顔合わせを兼ねて、南先生、寺井委員、
長谷川委員、私が大原の「町つくり委員会」に出席したことについて、報告をしました。因みに、
大原地区では原則第一土曜日に「町つくり委員会」を開催されているということで、今後も私たち
から希望があれば出席してもらっても良いということでした。
当日は町つくり委員長、連合会長、副連合会長始め8名ほどの町つくり委員にお目にかかり、まず
連合会長の飛田様から、大原地区の概要について説明をして頂きました。
それによると、大原地区は、高野川の流れに沿って、南北8地域ほどから構成され、北は百井から
山がちの土地も含め、かなり広範囲の地域によって成り立っているということでした。そのため、
地区住民が今回の会場である文化センターに集まるためには、自動車が不可欠ということで、また
最近は、地域外からの移住者が増えて、住民の子供たちが通う、小中一貫校は、従来生徒数60名
くらいから現在109名に増加している、ということでした。
そのような状況から、元来の住民と移住者との交流を図るために、年に1回芋掘り大会が開催され
ていて、近年は毎回100名ほどの参加者が有り、賑わっているということです。またこのセンターで
5月から6月頃、これも年1回、文化センター祭りが開かれていて、これには、年間通じて住民有志が
練習している和太鼓のサークルを始め、希望者の演奏等発表会が行われているそうです。これらの
催しには、龍池学区の住民も参加して頂いていいということでした。
また、こちらの要望である、大原郊外学舎で龍池学区の子供たちのために、何か催しを企画すると
いうことについては、この地域で見られる渡り蝶アサギマダラの好む植物である、フジバカマ等を
学舎の敷地に植えて、観察会を行いたいというこちらからの提案に対して、蝶に詳しい当地の町つ
くり委員長西村様より、我々の植えたフジバカマ等の管理を引き受けて頂くことになりました。
これによって、この計画は、一歩前進したと思われます。
3月14日に、龍池町つくり委員会も後援して、マンガミュージアムで開催する、京都市交響楽団の
70周年記念事業、「京の音楽会」(14:00~14:45)では、私たち町つくり委員が地域住民の来場
者を案内するために、開場時間13:30の15分前に、ミュージアムの両替町通り北側入り口に集合
することになりました。
2026年3月5日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3466を読んで
2025年8月26日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3466では
歴史学者井野瀬久美恵の『奴隷・骨・ブロンズ』から、次の言葉が取り上げられています。
先が読めないのは、未来だけではない。
過去もまた、予測不可能なのである。
つまり、未来がだれにも予測出来ないのと同じく、過去も今現在そのようであったと信じられて
いる事柄しか、認知することが出来ないということでしょう。
私たちは、歴史を基礎教育の段階から学習することによって、歴史の流れを把握するためもあっ
てか、身につけた歴史的知識を固く現実と信じ込んでいるところがあると思います。
でも今一般に流布している歴史は、あくまで現在の認識としての歴史であって、これからの遺物、
遺構や資料の発見等の研究によって、書き換えられる可能性も十分にあるということでしょう。
そう言えば、新発見によって歴史が書き換えられたという報道にも、時々接するように思います。
だから私たちは、未来予想は言うに及ばず、歴史を参考にしてこれからの施策や方針を策定する
ことにおいても、私たちの今現在の認識を参考にするだけではなく、その認識されている事項が
果たして真実であるのか、疑う慎重さも持ち合わせなければならないのではないでしょうか?
何事においても、疑いを持たず闇雲に信じ込むことの危険性をひしひしと感じる、この頃です。
2026年2月26日木曜日
大江健三郎著「治療塔惑星」を読んで
大江による近未来SFと言っていい小説です。本書は前作『治療塔』の続編のようなので、前作を読んでいない
私には、前提条件を知らないという意味で、読了しても全体に対する十分な理解を得られなかった可能性が有
ります。
しかし本書は、私自身映画でしか観ていませんが、『惑星ソラリス』や『2001年宇宙の旅』に匹敵する
人類の将来に対する哲学的命題が提示されているように感じられ、私も示唆に富むところが多かったと考える
ので、本書のみによる感想を記すことにしました。
例えば「治療塔」という装置の正体について。本書には「治療塔」の具体像は何も記されていません。ただ
この装置が宇宙の向こう側からもたらされたものであり、核汚染などで疲弊した地球から、人類の代表が新天
地を求めて宇宙航海の末到達した「新しい地球」で、それが発見されたこと。
「新しい地球」を発見した地球の先遣隊は、一部その決定に反旗を翻した反乱軍を除いて、地球に帰還する
ことになりますが、地球の荒廃が進むにつれて、再び地球への「治療塔」の導入を目指して、「新しい地球」
に調査団を派遣することになります。
これらのストーリー展開から推測すると、「治療塔」とは、不老不死をもたらす高度な医療装置ということに
なります。もしそうであると前提するなら、この物語は人類が医療技術の発展によって、不老不死を達成する
ことの是非を問う小説であると読めます。
まず人類は環境の悪化した地球を捨てて、不老不死という究極の目的を求めて新天地に赴きますが、その「新
しい地球」には確かに不老不死の装置はありますが気候風土は厳しく、大多数は帰還を選択します。しかし
一部はそこに残り、「治療塔」を使わず環境を改良して、人工的ではありますが、一種理想的な生活を送りま
す。
他方、勝手に「新しい地球」に到達した人々が居て、彼らは「治療塔」を使いながら、粗暴で享楽的、破滅的
な生活を送ります。そして地球に帰還した人類は、再び地球への「治療塔」の導入を求めるのです。
かなり物語を単純化してはいますが、人類の科学技術の発達がもたらす、様々な矛盾、葛藤、滅びへの予感を
見事に暗示していると感じられました。
もう一点、「新しい地球」からの帰還組の親から生まれた一人の子供が、最新技術によって生み出されたネズ
ミ状の小型ロボットを用いて、飼い猫を悪びれることなく惨たらしい死に至らせる描写が、深く心に残りまし
た。
2026年2月18日水曜日
京都国立近代美術館「セカイノコトワリー私たちの時代の美術」を観て
私が日頃展覧会に行くのは、美しいものに触れて気分転換を図り、心を癒やすという目的の場合が多い
です。それ故、美への感動よりも、現代の問題を深く考えさせるような展示が多く見受けられる、現代
美術の展覧会は、どちらかというと敬遠する傾向があります。しかしこの展覧会は、題名からも一体今
の世の中はどのような仕組みで動いているのかそのからくりを示してくれるような響きが感じられ、
試しに訪れてみることにしました。
実際に展覧会を観終えて、矢張り非常に難解であると感じました。肌感覚では漠然と今の時代を切り
取っていると感じられるところもあるのですが、それをどう消化したらいいのか、形を伴って理解する
ことが出来ないもどかしさが残りました。勿論考えが形にならなくても、それを感じられたところに
鑑賞した意味があるのかも知れないのですが、私としては、何か納得するところを得たいという欲求を
今も引きずっている状態です。
ただ、高嶺格「Baby insa-dong」は、唯一内容においても、見終えて私の心に強い印象を残すところが
あったので、その作品について若干記してみたいと思います。この作品は、日本人である作者が、在日
朝鮮人二世である女性と結婚することになり、その結婚式の一部始終を写真を連ねて展示し、それらの
写真とシンクロするように作者の時々の気持ちを記した文章を並べた作品です。
結婚に際して、作者が相手の女性を気遣おうとする態度が、知らず知らずのうちに、相手を傷つける、
つまり日本人の意識に摺り込まれている差別意識が浮き彫りになり、その地点から新郎新婦が親族や
友人たちの協力も得て、新しい家族像を作っていく様子が丹念に描かれ、作品を観る者も思わず彼らへ
の共感を覚えずにはいられないように制作されています。
国政選挙でも、外国人問題が大きな争点になる現在、正に時宜に適った作品であると感じました。
2026年2月12日木曜日
梯久美子著「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」を読んで
小さい子供に絶大な人気を誇る「アンパンマン」。昨年NHKの朝の連続テレビ小説で、作者やなせたかし
の妻暢がヒロインに選ばれて、やなせ自身にも関心が寄せられました。生前のやなせのイメージは、
特徴的な黒い帽子を被り、いつもニコニコした好好翁という感じで、「アンパンマン」による成功もあ
って、満ち足りた人生を送った幸福な人と捉えて来ました。
しかし、それでも本書を手に取ったのは、小さい頃の娘や今は孫と時々テレビで観る、アンパンマンの
アニメの、自分の顔を腹を空かせた人に食べさせる、異色の自己犠牲のヒーロー像に、作者への興味が
かき立てられ、また本書の著者梯久美子がやなせと深いつながりを持つ人物で、同時に今まで彼女の
著作を数冊読んで、その力量を評価していたからです。
さて実際に読んでみると、私の漠然と抱いていたやなせに対するイメージは、大いに覆されたと言って
いいでしょう。まず彼の複雑な生い立ちです。幼年期に父を亡くし、母も再婚することになって、実の
弟が先に養子に迎えられていた、開業医の伯父に引き取られることになり、その家で兄弟の関係性が逆転
する微妙な立場に置かれることになります。
伯父は出来るだけ公正に二人を養育するように努めますが、弟は学業成績も優秀で、やなせは屈折した
心理を抱くようになります。そして伯父の急死を経ての弟の戦死。自らも徴兵されて中国大陸に従軍した
やなせは、敗戦による急激な価値の転換に打ちのめされます。信じてきた正義が一朝のうちに覆されて、
「ある日を境に逆転する正義は、本当の正義ではない」と考えるようになります。「アンパンマン」は、
そうしたやなせの正義像が託されていると思われます。
彼が新聞社や、企業の宣伝部の勤務を経て、漫画家として独立してからも、絵も詩も文もこなし、様々な
注文に応える器用さと、頼まれれば断れない性格により、彼の名をことさら高めることはなくとも、必要
とされる仕事をこなして行きます。
その中にも、キラッと光るものはあって、童謡「手のひらを太陽に」の歌詞、童話「やさしいライオン」、
詩誌「詩とメルヘン」の編集などが挙げられます。彼の代表作「あんぱんまん」が絵本で誕生したのが
50歳を過ぎてから、アニメ「アンパンマン」がブレークしたのは70歳になってからです。彼が代表作を
生み出すまで、長い紆余曲折があったように思われますが、全てが成功の下地となり、彼の変わらぬ信念
が、晩年の大成をもたらしたと感じられました。
2026年2月3日火曜日
米原万里著「オリガ・モリソヴナの反語法」を読んで
長い読み物にも関わらず、一気に読まされました。この小説が日本のそれにしては、珍しく世界スケール
の作品で、しかも、幼少の頃のノスタルジックな記憶から始まり、その忘れがたい人物の謎を解明する
ために、歴史の真実を掘り起こして行く課程で、ソ連を巡る忌まわしい過去が明らかになる衝撃も相まっ
て、一級のミステリー作品であると感じました。
しかも、夥しい人物の複雑な関係性を交錯させながら、ストーリーに破綻がなく、そこがこの小説の数少
ない欠点の一つとも思われるけれど、息もつかせぬスピーディーさで物語を進行させ、カタルシスを伴う
終焉を迎えさせるところは、著者の並々ならぬ力業を感じました。
先ず私が、本書を読んで印象に残ったのは、普段なかなか知ることの出来ない、当時の共産圏の国の人々
の生活です。著者の実体験を反映する、日本からチェコスロバキアのソ連学校に編入された少女は、豊か
な国際性、文化性を備えたその学校で、個性的な級友に囲まれて、伸び伸びとした学校生活を送ります。
その自由な雰囲気は実際には、共産国の抑圧的な体制の中で、学校関係者によって懸命に守られることに
よって、維持されたものであったけれど、日本の閉塞感の強い学校生活と比較して、考えさせられるとこ
ろがありました。
その自由な学校の象徴的な存在である、名物ダンス教師オリガ・モリソヴナの幾重にも纏われた秘密を、
日本に帰国して30年以上の年月を経た主人公が、謎解きのヒントがあると思われるモスクワを訪れて、
解明を試みるのが本書の主筋ですが、ソ連の共産主義独裁体制がもたらした、戦慄すべき悪夢の実体験に
基づく具体的な記述は、理想国家の建設を目指した清新な思想が、官僚主義や疑心暗鬼、権力欲に次第に
歪められた結果を見る思いがしました。
ただ、その絶望的な状況の中で、オリガが発する罵詈雑言、本書の表題にもなっている褒め殺しと言って
もいい豊かな反語法は、彼女が現状を跳ね返し、不屈の闘志で生き抜く意思表明となっています。
この共産主義という壮大な規模の社会実験における思想、政治、文化の考察に止まらず、人間存在の探求
にまで切り込むこの小説が、しかし、ミステリー性と性急なストーリー展開を意識するあまり、やや駆け
足で、表層的な記述に終始しているところは、少し物足りなく感じました。
2026年1月29日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3449を読んで
2025年7月24日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3449では
19世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーの『自殺について 他四編』から、次の言葉が取り上げ
られています。
人生とは通例、一連の叶わなかった希
望、仕損じられた計画、気づくのが遅す
ぎた誤り以外の何ものでもなく・・・
何と適確な定義でしょう。まず私はそう感じて、膝を打つ思いでした。私たちは、何かで満たされた
時、何かを成し遂げた時、直ぐにそれでは次には何を求めるかと考えてしまう生き物です。
そうして人類は発展し、文明を築き、現在に至っているに違いありません。人間の現状には満足しな
い向上心、貪欲さ、それら諸々の欲望が、地球を席巻する現代文明を生み出したのでしょう。
地球上に生息する他の生き物は、本能的に自らの種の繁栄を求めているとしても、それはあくまでも
自然の摂理の範疇においてであり、自然環境を越えて自らの勢力圏を拡大することまで指向している
訳ではありません。
ところが人間の欲望は、遂には地球環境の許容量を越えて、宇宙へと拡張して行こうとしています。
人類の発展は、このような人間の特性に預かるものであったとしても、事ここに至ると、自らを滅ぼ
し兼ねないとも思われます。
そして人類全体の運命だけではなく、それぞれの人間の人生も、矢張り性とも言える現状に満足出来
ない欲求や、不安、猜疑心に振り回される質のものなのでしょう。ただ、個々の人間は、その際限
ないストレスのサイクルから逸脱することが可能かも知れません。
向上心は失わなくても現状に満足し、足るを知るという心安らかな心境で生きていくことが出来れば
・・・。私が叶えたい生き方です。
2026年1月20日火曜日
澁澤龍彦著「幻想の画廊から」を読んで
恐らく、このようなジャンルの絵画について語るのに打って付けの著者による、幻想絵画を巡る美術評論
です。
私は西洋美術の歴史の中で、ややもすると日陰の存在とも思われる、このような絵画にも惹かれるところ
があるのですが、本書を読んで一番の気づきは、このジャンルの絵画が正統な絵画の伝統の影響をはっき
りと、引き継いでいることを知ったことです。
例えば、西洋絵画における初期の静物画が、単に動かないものを写実的に描写するのではなく、宗教的な
意味での存在そのものの神秘や、命を授かったものはやがて死を迎えるという儚さを表現しようとして描
かれたものであり、多くの幻想絵画における画面の静謐さは、そのような伝統を継承するものであるとい
うことです。
従って、近代において注目度を増した幻想絵画のジャンルは、新しいようで根源的な人間の精神構造に、
創作のルーツを求められるものであり、社会的発展による着想や表現技術の多様化が、一気にこの種の
絵画の流行をもたらしたのでしょう。そう考えると益々、幻想絵画への興味が膨らむことになります。
本書で澁澤が取り上げた幻想の芸術家たちから、特に私が興味を惹かれた数人について記すると、時間が
止まった廃墟のような町を闊歩する色白で豊満、豊かな陰毛を蓄えた全裸の女性たちを描く、画家デルヴ
ォーにとって彼女らは性的渇望の象徴であるといいます。しかしこの画家は、敢えて扇情的な女性を描く
のではなく、内に秘めた欲望の対象としての女性を美しい空間の中に描写することによって、鑑賞者の
想像力をかき立てるのです。
他方ヴァルチュスは、デルヴォーと同じような静寂の世界を描きますが、その登場人物はそれぞれの追憶
の世界に取り憑かれているようです。特に彼の好んで描く不自然な姿勢の少女たちは、その頃の少女のみ
が持つ切なさやエロティシズムを体現しているようで、鑑賞者の心をざわつかせます。
リルケの「マルテの手記」にも取り上げられている、パリのクリュニー美術館の「貴婦人と一角獣」は、
中世のタピストリーの名品ですが、粗暴で手の付けられない存在でありながら処女には従順なこの獣は、
神秘的で魅力的な存在として、冷たいエロティシズムを湛えた情念の女を描いたモローも、格好の題材と
してこの獣を美女に添えています。
2026年1月14日水曜日
2026年1月度「町つくり委員会」開催
1月13日に、第1回の「龍池町つくり委員会」が開催されました。
まず、京都国際マンガミュージアム1F AVホールで3月14日(土)に開催される、京都市交響楽団の70周年
を記念する、京響メンバーによるアンサンブルコンサート「京の音楽会」を、龍池自治連合会と併せて、
町つくり委員会も応援、協力することの賛否について協議し、賛成ということに決定しました。
これは一般の来場者はコンサートは無料ですが、ミュージアムの入館料が必要なのに対して、龍池学区民
には参加を促すという意味で、ミュージアム側の配慮で、この日は特別に免除するという企画で、当委員
会委員は来場の学区民の識別を担うことになりました。さらに龍池文化協議会にも協力をお願いすること
になりました。
次に、6月に祇園祭関連行事として企画している、役行者山での学区民対象の勉強会については、寺井委員
が制作された告知チラシの原案を持参され、それを元に6月27日を候補日として、南先生に役行者山の世話
役である林さんと、話を詰めて頂くことになりました。
龍池町つくり委員会委員と大原町つくり委員会委員の方の顔合わせについては、3月7日午後5時に我々が
大原の文化会館を訪問して、交流することに決定し、龍池からは私、寺井委員、長谷川委員が参加すること
になりました。この訪問を通して、これからの交流方法を決定したいと考えています。
次回の2月10日の第2回「町つくり委員会」は、メンバーの交歓を兼ねて、近辺の飲食店で開催することに
決定し、寺井委員に場所を設定して頂くことになりました。昨年「龍池町つくり委員会」が新体制になって
から、まだメンバーで飲食を伴う集まりを持ったことがないので、一度互いを知り、結束を固めるためにも
このような懇親会を行った方が良いということになった次第です。南先生グループの学生の方には、会費の
内一部を補助するということに決定しました。
2026年1月8日木曜日
加賀乙彦著「岐路 下巻」を読んで
正直下巻は、私にとっては期待に違うものでした。上巻は2.26事件の勃発で終わり、この国の激動の時代
の中で、時田病院の院長一族にどのような運命が待ち受けているかということが私の興味の中心でしたが、
下巻では上巻ほどに彼らの運命は、政治や社会問題の直接的な影響を受けること無く、内向きの生活が描か
れることに終始し、しかも物語は、上述の事件後短い期間で終わりを迎えたからです。
つまり下巻は、利平の妻菊江の死去によって、繁栄を遂げた時田病院が衰退の兆しを見せるところで終わっ
ています。あれほど万能に見えた時田利平も、自らの体力の衰えと共に勢いに陰りを見せ始め、病院運営か
ら私生活まで全般を支えていた菊江の死によって、独善的な姿を顕著にし始めます。菊江の今際の際の懇願
にも関わらず、また子供たちの反発も押し切って、妾のいとを後妻に迎え、病院の放漫経営には拍車がかか
り、医師、看護婦など職員の結束も緩んでいくように感じられます。
そのような状況の中で、初江は不倫の子である可能性もある第四子を出産することを通して不倫の解消を
決意し、夏江は菊江の遺志を汲んで、意に沿わぬ利平の腹心の医師と結婚し、母に代わる事務長として病院
経営と父の素行の矛盾を一手に引き受け、力尽きて、離婚と病院を去ることを決意します。
物語はここまでしか語られず、読者はその後の日本の破局という歴史的事実を知っていますが、この病院や
人々にどんな運命が待ち受けているかは分かりません。ただ予測出来ることは、一時の繁栄の後の空しさだ
けです。
下巻で唯一当時の時事情勢を知らせてくれるのは、冒頭の敬助の目を通した2.26事件収束の顛末です。
果たしてこれが史実通りであるかは分かりませんが、綱紀粛正を唱えた一部血気盛んな若手陸軍将校が、
当時の内閣の主要閣僚を殺害し、その行動を一時は支持するかに見えた陸軍の大勢は、次第に彼らを罰するこ
とによって事態の沈静化を図り、結果として彼らの意に沿わぬ形で、当時の陸軍中枢が政治的発言力を増し、
戦争への坂道を転げ落ちて行くのです。
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