2021年8月20日金曜日
「鷲田清一折々のことば」2097を読んで
2021年7月27日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」2097では
イタリア育ちの日本文学研究家・詩人ディエゴ・マルティーナの『誤読のイタリア』から、
次のことばが取り上げられています。
モノはね、壊れたら捨てるのではなくて、直
すものなんだよ
私たちはいつごろから、身の回りのものを簡単に捨てるようになったのだろう?そう考える
時、私はまず、衣類を思い浮かべます。
私の子供の頃には、よそ行きには、よく父親の服を仕立て直したものを、着せられていまし
た。その服が、子供ものにしては生地も上質なので、育ちのよさそうな子供に見えると、
周囲の大人からおだてられて、自分でも気に入っていたことを記億しています。
その時の想いが身に沁みついているのか、私は今でも洋服の物持ちがいい方で、少し品の
よいものはまずよそ行きとして着用し、それから常着に降ろして、10年以上愛用している
ものもあります。そんな私の感覚からすると、相対的に廉価な服を1シーズンで着つぶすと
いうやり方は、性に合わないと感じます。
同様に子供の頃には、母親が、例えば古いタオルを雑巾にしたり、カレンダーを切ってメモ
用紙にするなど、色々なものを再利用するのを見ていたので、そうするのが当たり前と思っ
て来ました。
でも世の中は移り変わり、大量生産、大量消費の時代になって、私自身がそれを如実に感じ
たのは、電気製品の中にも、修理するよりも使い捨て、という品が増えたことでしょうか。
まあ、こういうことを言っていること自体が時代遅れなのでしょうが、ヨーロッパなどでは
まだ、そのような習慣が残っているように聞いたことがあります。私たちも、品物によって
は、そのように使用方法を見直すべき、と思います。
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