2020年6月1日月曜日

大江健三郎著「個人的な体験」を読んで

最初、頭部に異常を持って生まれて来た新生児の父親となる覚悟が出来ず、苦悶と
葛藤の果てに、ついには、障碍を持つかも知れない子供と共に生きて行く自覚を生み
出した、男の物語。

この小説を、一文で要約するとそういうことになりますが、周知のように、作者大江
健三郎自身が同様の体験をしているとはいえ、この物語が決して現実に基づいた
私小説ではなく、多くの虚構を含む、フィクションであることは言うまでもないでしょう。

ではどうして、彼はこのような形式の小説を書き上げたのか?私が思うに、一般的な
人間ならば、このような危機的状況に追い詰められて、抱くに違いない絶望からの
再生を、この小説の話法によって、際立たせたかったのではないでしょうか。

もしそうであるなら、主人公鳥(バード)の学生時代の恋人で、それから以降も親密な
関係が続き、今回の危機でも産後の入院を続ける彼の妻をしり目に、彼が寡婦である
彼女の家に転がり込んで、性的快楽を貪る火見子(ひみこ)の存在が、重要な意味を
持ちます。

火見子とは、いかなるものを象徴しているのか?最初彼女は結婚するも、一年で夫
に自殺されて、残された家で昼夜逆転の自堕落な生活を送り、性においても見境なく、
男を受け入れる女として登場します。

そして鳥(バード)の苦境を知って、その赤ん坊の一刻も早い死を願うという彼の悲しみ
と罪悪感から、肉体的な苦痛に耐えながらアブノーマルな性交をすることによって、彼
を絶望の淵から救います。その姿は自己犠牲を厭わず、無条件に相手を受け入れる、
俗性をまとった穢れなき心の象徴のように思われます。

しかし彼女は、鳥(バード)が彼女と肉体関係を続けながら、件の子供を死に至らしめる
べく画策するうちに、次第に彼に加担し、彼との逃避行を夢想するようになります。ここ
に至って火見子は、彼をそそのかす魔性の象徴のようにも思われます。

結局彼女も、我欲に支配された一人の生身の人間という見方もありますが、私は彼女
が、鳥(バード)の心の揺れを引き立たせる、彼の心の働きの裏面を支える存在と、読み
解きました。

彼が、障碍を持つかも知れない子供と共に生きて行く覚悟を決めた物語の最後、冒頭
で意気軒高な彼が挑発したために、喧嘩になった不良少年グループと再会したのに、
最早彼らが鳥(バード)を認識出来なかったために、そのまま通り過ぎた場面、更には、
彼の義父が彼に「きみはもう、鳥(バード)という子供っぽい渾名は似合わない」と語る
場面が現すように、人生の困難と向き合う勇気を得た彼は、分別ある大人への階段を、
確実に上がったのでしょう。

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