2019年3月29日金曜日

鷲田清一「折々のことば」1414を読んで

2019年3月26日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」では
宮沢賢治の「農民芸術概論綱要」から、次のことばが取り上げられています。

  曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成
  楽しく生きていた
  そこには芸術も宗教もあった

芸術や宗教行事は、人の感覚に訴えかけ、暮らしの気分を入れ換える、この張合い
を生活の核とすれば、自治と抵抗の精神も芽生える、とこの国民的詩人で童話作家
は考えたそうです。

背景には当時の農民の貧困と過酷な生活があったのでしょう。でも上述のことばは、
何もその頃の農民に限らず、現代の私たちの心の持ち方にも当てはまる、と感じ
ます。

現代を生きる私たちは、科学的知見の発達や、資本主義化、核家族化によって、急速
に宗教意識を失って来ています。葬儀や法事の省略、簡素化は、そのことを端的に
表しているでしょう。

金銭や物質的な無駄を省くという意味では、それでいいのかも知れません。でもその
ようなやり方では、何かの拍子にふと、虚しさやわびしさを感じるのではないでしょう
か?少なくとも私は感じます。

芸術についても、なるほど現在では、私たちは世界各地の豊富な種類の芸術を味わう
ことが出来ますが、かつてのこの国の芸術が生活と密着したものであったということも
あって、現代の我々の芸術享受は、傍観者的であるようにも感じられます。

私たちを取り巻く現代社会のこのような環境では、それはなかなか難しいことだと感じ
ますが、私はたとえ個人的にでも、宗教や芸術に対峙する時に、自分なりに確かな感覚
を持ち続けていたいと、思います。

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