2019年3月18日月曜日

鷲田清一「折々のことば」1402を読んで

2019年3月14日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1402では
ジョン・バクスターによる評伝『フェリーニ』から、映画監督・フェデリコ・フェリーニの
次のことばが取り上げられています。

  なぜ、そんなに続きをほしがる?皆、それ
  ほど想像力がないのだろうか

私は学生の頃、イタリアの巨匠フェリーニの「道」を観て、西洋映画の素晴らしさに
初めて目覚めたと記憶します。観終わった時には感動で心が打ち震え、いつまでも
その余韻が残って、40年以上経った今でも、鼻歌で主題歌のメロディーが口ずさめる
ぐらいです。

上記のことばから改めてこの映画の残像をつなぎ合わせると、詩的な数々の名場面
と共に、粗暴な大道芸人ザンパノが、長らく道連れであったにもかかわらず、自分が
棄てた薄幸の女性ジェルソミーナの死を知って、号泣するラストシーンが思い浮かび
ます。正にこのシーンが、観客の心に万感の思いを想起させたのでしょう。

最近の映画は、実写作品でもアニメや漫画原作のものが目立ちます。技術的には
これらの原作を実写化しやすくするCG技術が発達したこと、興行的には原作に人気
があってあらかじめ一定以上の観客動員が見込めること、が挙げられます。

更には最近の観客が、アニメや漫画的なスピード感や起承転結のはっきりしたストー
リー展開、分かりやすさを求める傾向があるのだと、思います。

確かにこれらの原作映画にも、素晴らしい作品はあります。でも上記のことばから
「道」の映画体験を改めて思い返した私には、余白や余韻を残す映画が懐かしく感じ
られました。それだけ年を取ったということでしょうか。

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