2019年2月22日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1383では
英国の批評家、E・M・フォースターの評論「無名ということ」から、次のことばが取り上げ
られています。
情報は正確なときに真理となり、詩は自立し
たまとまりを持つときに真理となる。
情報は誰がどこで目撃したかが重要なので署名が必要、それに対して詩で重要なのは
目の前の事象以上に「本質的」な世界を生み出す作品であるかということなので、作者
が誰かは問題ではない、とこの批評家は述べているそうです。
確かに優れた文学にとって、一体誰が著したかということは本質的な問題ではなくて、
いかに創造的であり、共感を伴って読者のイマジネーションを喚起することが出来るか
ということの方が遥かに重要でしょう。
そしてもし無名の作者がそのような作品を生み出すことが出来た時、私たちは新しい
才能の誕生を目の当たりにすることになるのでしょう。
しかし我々はネームバリューや既成観念に囚われやすい存在であるゆえに、文学を
味わおうとする時にも、ついつい既存の情報に左右されてしまうのかも知れません。
芸術におけるこうした問題を考える時、私には絵画の評価ということがまず思い浮かび
ます。絵画の市場的価値と美術的価値はかならずしも一致しないと感じます。
一般の人間は得てして、市場的価値の定まった作品、つまり既存の人気のある画家の
作品を評価し、無名の画家の作品はたとえそれが優れた作品であっても、なかなか
評価しないものです。
それゆえに優れた文学、芸術を享受するためには、私たちはより多くの作品に触れて、
審美眼を養うことが必要であると感じます。
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