2020年11月4日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1984では
哲学者・田中美知太郎の論文集『善と必然との間に』から、次のことばが取り上げられて
います。
物指や計りで計ることは誰でもできるけれど
も、目分量や手加減でちょうどその量を当て
ることは、そう誰にでもできることではない。
これこそ、熟練の仕事!考えてみれば、合理化や効率化は、熟練しなくても誰でもが、
一定のレベルの仕事をこなせる方法を編み出すことのようにも、感じられます。
でも、私のような伝統的な仕事に従事する者にとっては、遠回りしても仕事の神髄を体に
覚え込ませて、その仕事に携わっていることが、体から自然ににじみ出てくるように
しなければならないと、教え込まれて来ましたし、そう信じても来ました。
つまり、このような考え方自体が、もはや古臭いのかも知れませんし、時代に合っていない
のかも知れません。
でも、体に覚え込ませるという直接的な行為は、現代では過去の遺物に近づいているかも
知れませんが、精神的な部分での、仕事へのかかわり方という意味では、今なお大切なこと
のように、私には思われます。
テクノロジーはどれだけ進んでも、精神の核という部分では、人はその仕事が本質的に何で
あるかを、体に浸み込ませなければならないのではないか?私には、そう思われるのです。
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