米国に出自を持ちながら、母語でない日本語で小説を書く作家。
私は日本に生まれ、しかも人生の大半の時間を生まれ育った土地を離れずに生きて
来た人間として、また学生時代には外国語としての英語を学んだにも係わらず、
大部分は忘れ去り、グローバル化や情報化社会の進展の中で、時として自身が母語
だけに縛られているような感覚に囚われる人間として、リービ英雄のような作家に対し
ては、自分には縁遠い存在という認識しか持っていませんでした。
たまたま読売文学賞受賞の本作を手に取る機会を得て、父親の外交官という仕事柄
彼が日本を含めアジア各国に移り住みながら成長を遂げ、”ヒデオ”という名前が父の
友人に因む本名であることを知り、さらに日本占領下の台湾が彼の「故郷」として、
アイデンティティ形成の掛け替えのない、意味を持つことを知るにつけ、この作家が
自らの存在の意味を模索する中で、日本語で小説を書かざるを得なかった必然を、
私自身の想像力の範囲内で、理解することが出来たような気がしました。
また彼のような越境者の文学が、私のような限られた地域だけで生活している者に
とっても、日々グローバルな情報に身を晒されている現実において、さらには社会の
変化の速度が増して、世代間の価値観のギャップが著しい世相において、他者との
コミュニケーションの構築を手探りする上で、貴重な示唆を含むのではないかと、感じ
させられました。
さて4編の短編小説からなる本書の中で、私は表題作「模範郷」よりも「ゴーイング・
ネイティブ」という作品に強い感銘を受けました。
この作品はネイティブに転じるという意味を持つ英語の言い回しGOING NATIVEを
契機として、”人種上は西洋人でありながら文化上はアジア人として生き、文学を
書いた”ノーベル文学賞受賞者パール・バックについて思いを巡らせる短編で、彼女が
キリスト教の宣教師の娘として幼少期より中国で暮らし、中国人の感性や文化的伝統
を体得した初めての西洋人として、文学を表したことの越境文学者としての価値を
再評価しながら、同時に彼女の作品が中国で評価されなかった背景として、彼女が
その作品を中国語ではなく英語で発表したことに原因の一つを求め、そのことによって
著者リービ英雄自身がこれからも日本語で文学を書き続ける覚悟を再認識している
ように感じられます。
作者の文学に取り組む切実さが、滲み出る好著です。
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