2017年10月15日日曜日

石川九楊著「<花>の構造ー日本文化の基層ー」を読んで

書家であり優れた評論家でもある石川の著述は、書をベースにした独自の視点からの
文化論に興味を感じて、時々手にして来ました。

本書も<花>という艶やかな文字を、彼がどのように調理するのかという点に引き付け
られて、ページを開きました。石川は書家という立場から、言葉が文化を形作ることを
説得力のある語り口で語ります。

本書第1章「話し言葉、書き言葉、そしてネット言葉」は、<花>そのものへの言及の
前段階として記されたものではありますが、私にとって大変興味深く感じました。

つまり書き言葉は、書くという行為を通して内省を促す度合いが強い言葉であり、
話し言葉は、話し相手の反応を観察、推し量りながら、絶えず柔軟に変化させつつ操る
言葉である。

それに対してネット言葉は、書き言葉の内省もなく、話し言葉のように相手の反応を
忖度することもなく、一方的に発信される傾向の強い言葉である。

今日のネット上の誹謗中傷、過度の個人攻撃、炎上などは、その特性によるところが
大きい、というものです。

私もブログをネット上に発信している一人として、自省の思いを強くしてこの文章を読み
ました。

さて石川は彼の持論である、日本語は中国から移入された漢字語と、日本古来の言葉を
ベースにしたひらがな語によって複合的に構成されていると説き起こします。

この言語の中で、漢字語は政治、宗教、哲学、思想を表現し、ひらがな語は、風情、情緒
などの感覚的なものを表現します。<花>という言葉も、中国語の「華」から転化した
「花」に、ひらがな語の「はな」の読みが当てられて、定着していったと言います。

その過程において「花」の言葉には、植物の花の意味合いだけではなく、季節の移ろいや
男女の性愛の意味が込められて行きます。

本書ではその具体例として、万葉仮名で記された「万葉集」や、かな文字で記された
「古今和歌集」の写真図録が掲載されて、説得力があります。

日本語がこのように入り組んだ言語構造を持ち、またそれゆえ日本文化が複雑な独自の
形で発達を遂げて来たこと。

またひらがな語に由来する感覚的なものが、今日までも流行歌に取り込まれて、人々の
感情の琴線を震わせていること。

更には、現代における合理主義の浸透や情報化社会の発達が、我々日本人の心情を
ひらがな語的な深い内省を伴わない感覚重視の傾向へと傾かせ、底の浅い世相を生み
出していること。

<花>という一字の探求から、このような結論を導き出す、著者の手わざは鮮やかです。

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