2017年9月27日水曜日

鷲田清一「折々のことば」881を読んで

2017年9月22日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」881では
真宗大谷派東本願寺の親鸞聖人七百五十回御遠忌のテーマである、次のことばが
取り上げられています。

 今、いのちがあなたを生きている

宗派の教理との兼ね合いは私には分かりませんが、そのことを離れても、深い意味を
持つことばだと思います。

私たちはとかく頭でっかちになって、ともすれば、自分の身体というものは自身の
所有物で、どのように扱おうと勝手であると、考え勝ちです。そしてそのような気持ちが
例えば自殺を考える時など、頭をもたげて来るのではないでしょうか?

しかしそれがもし誰かからの預かりものであると認識するなら、自ずから身体に対する
考え方も違ってくるはずです。

科学的知見にしても、身体はDNAの乗り物であり、自己という意識はそこから派生する
ものに過ぎないと推定するなら、身体は預かりものという考え方と見事に一致します。

生・老・病・死の四苦にしても、肉体的苦痛は別として、自分の身体が幸運な授かりもの
と感じられたら、随分慰められ、和らぐものもあるような気がします。

どこで伝聞したのかは忘れましたが、人類と類人猿の感じ方の違いとして、例えば
類人猿は、身体に障がいの残る深手を負っても、それ以降の生活にもたらされる不利を
嘆かない。つまり自らの運命を呪わず、将来を悲観しないということです。

単にそういう能力が欠如しているということかも知れませんが、厳しい野性の生活を
生き抜くためには、そのような能力は邪魔になるので発達しなかったのかも知れません。

このことばを読んで、そんなことを考えました。

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