2020年7月25日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1885では
評論家・吉田秀和がモーツァルトのクラリネット協奏曲について語った、次のことばが
取り上げられています。
きれいな音であればあるほど、それが何か悲
しくひびくのはどうしたわけだろう
これは私も、かつてモーツァルトの作品を聴いて、よく感じたことです。
モーツァルトの曲は、とても透明で明るく、楽し気であるのに、なぜか悲しい。どうして
そうなのかと考えてみても、簡単に答えが見つかるわけではないけれど、あまりにも
美しく、均整がとれているからではないかと、思ったことはあります。
あまりにも非の打ちどころがなく、美しく洗練されたものは、人を感動させるけれど、
逆に矛盾や欠点だらけの自身を振り返った時、情けなく、悲しくなるのではないか?
更には、モーツァルトの楽曲の場合、それがどんなに素晴らしい演奏であっても、時
の経過と共に移ろい、やがて消え去る音楽というものの宿命を背負っているために、
はかなさの感情を強調されるのかも知れません。
いずれにしても、モーツァルトの曲を好む人は、私も含め、その音楽に浸り、安らぎを
得たいと同時に、この哀しみも味わいたいのではないでしょうか?なぜならそこに、
人間が生きるということの深淵をも、のぞき込む思いがするから。
かつて『アマデウス』という映画で、軽薄なキャラクターで描かれていたモーツァルト
に、私が当初驚きながら、観ているうちに次第に納得して行ったのは、彼の楽曲に
内在するこの悲しさ故ではなかったか、と今は思います。
その音楽の完璧さに反比例する、彼の人間臭さに救われるような。
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