2026年6月17日水曜日

開高健著「夏の闇」を読んで

開高健というと、私も雑誌連載時に愛読した、釣りを巡るルポルタージュ作品を思い浮かべます。そこ には躍動的な釣りの描写と共に、現地の社会情勢、風俗までをもうかがわせる、奥行きのある表現が 展開されていました。本書は一転、彼によるベトナム戦争従軍取材から一時離脱し、再び戦地に赴く までの合間の心の動きを捉えた、純文学作品です。 主人公は、ベトナムで戦場の圧倒的な現実に打ちのめされ、生きる目的を失い、放心状態となって、 ドイツと思しき異国に暮らす日本人女性の元に転がり込みます。そしてそこでの愛欲、食欲、睡魔に まみれた自堕落な生活から、彼が再び立ち直り、自らを鼓舞して、戦場への復帰を決意するところで 本書は終わっています。 この小説を読んで私が一番感銘を受けたのは、彼の精神が立ち直るきっかけとなった、湖でのパイク 釣りの描写です。ルポルタージュ作品でもお馴染みの、抒情と迫真感に満ちた適確なペンさばきで、 パイクの大物を釣り上げるまでを生き生きと表現しています。彼はこの行為を通して、生の実感を再び 呼び覚まされるのですが、この描写は単に、この小説のストーリー上の転換点であるだけではなく、 開高という作家の文学作品におけるものの感じ方や、その表現方法を適確に示しているとも感じられ ます。 というのは、彼は現地の取材や釣りなどという現実の体験に基づいて感じたことを、想像力に委ねる のではなく、あくまで体感を通して表現するのが巧みな小説家であり、それ故本作でも釣りの描写は 歯切れがいいが、その箇所以外の全編を構成する主人公の心の動きを追う描写は、ただ無為な行為を 繰り返すことのみに振り回されて、それが作者の意図であるとしても、読む者には空しさだけが残され るのです。 もっとも、本書が著されたベトナム戦争当時は、まだ第二次世界大戦の余韻も冷めやらず、その上での 新たな戦争の勃発という絶望感が充満していたかも知れず、この小説はその当時の日本社会を覆う一部 の空気に呼応し、読者の共感を得たかも知れません。 現代の読者の私としては、主人公がひたすら続ける自暴自棄の行為に辟易すると同時に、主人公に付き 合わせられる女の、男に都合の良い描かれ方に、抵抗を覚えずにはいられませんでした。

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