2024年8月2日金曜日
丸谷才一著「樹影譚」を読んで
川端康成賞受賞の表題作を含め、三編からなる短編小説集です。やはり作者は、素晴らしい技巧の持ち主と感じ
させられ、それぞれ隅々まで目が行き届き、さながら磨き上げられた工芸品の趣があります。
40年近く前の作品ですが、短編の創作技術という意味では、現代を上回ると感じられます。つまり、現在のそれ
は形より感覚が重視され、また世の中が更に複雑化、個別化して、その結果主題が表層化、それでいて細分化
されて、奇をてらったり、意表を突くような語り口が重視されているように感じられます。その点本書の三部作
には、『夢を買います』が少し現代的ですが、オーソドックスに人間心理の深層や人の交わりの機微を掘り下げ、
読後に滋味を感じさせるところがあります。
さて三部作の中でも、やはり一番印象に残ったのは、頁数も最も費やされている表題作『樹影譚』で、景色の中
で壁に映る「樹の影」が、なぜ特定の人を惹き付けるのか、という疑問を契機として編まれた短編小説です。こう
して改めて問いかけられると、私にとっても壁に映るそれも適度な濃度の木の影は、穏やかさや、懐かしさを感じ
させると思い至ります。
大体が木陰というものが、強い日射しや暑さから人を護るという意味で好ましいものと考えられ、風景画などでも
「樹の影」は魅力的なものとして描き込まれている場合が多いです。更にその影が壁に映るとなると、それは人に
限定された特別な情景を思い起こさせることになるでしょう。
この短編では、この主題に対する作者の文学的な博覧強記を提示した後、作者自身の創作した物語へと移って行き
ますが、その物語の主人公、幾分作者本人を投影していると思われる、小説家、文芸評論家古屋逸平は、故郷に
帰省した折に、彼の読者というある旧家の老女の元を訪れ、嘘とも誠ともつかぬ自身の出生の秘密を聞かされます。
そして半信半疑の内に、彼にこの話を信じさせる根拠となるのが、この「樹の影」の記憶なのです。
物語の結末近くに至り語りは一気に暗い熱を帯び、彼の記憶は、混乱の中に遠く前世まで遡って行きます。人間の
深層心理の不思議をえぐり出す、傑作であると感じました。
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