2024年7月5日金曜日

森田真生著「数学する身体」を読んで

私自身大学は文系の学部に進んだので、数学を学んだのは高校生の時までで、それ以降はどちらかというと 数学と無縁の生活を送って来ました。だからどこかで、数式を見ても何かよそ事のように思ってしまうとこ ろがあります。 そんな私が本書を手に取ったのは、数学に苦手意識はあるけれど、現代のような高度にIT化された社会では、 数学的思考法が必要ではないかと考え、そのようなものに少しでも近づけたらと思っているからでもありま す。 さて本書を読んで、私に数学というものへの知的想像力が足りないからか、何か核心に触れられないもどか しさと、消化不良のような不全感を感じました。しかしその反面、すんなりと腑に落ちた部分もあり、知的 好奇心をかき立てられた部分もありました。その相反する感覚がモヤモヤと後を引いていますが、ここでは それが正しいかは別にして、本書によって自分が納得させられた点、知的な刺激を受けた点について、書い てみます。 まず数学が、数の計算という実用から始まったことは、私でも想像がつきます。人間は手の指が10本、足の 指が10本なので、それ以上の数を正確に把握するために、計算法が生まれました。また数学における十進法は、 人間の身体の構造から自然に導き出されたのでしょう。この点において、数学が身体と深く結びついた学問で あることは理解出来ます。 そして古代ギリシアで幾何学的な証明が発達したことは、ギリシア哲学とも密接に関わり、近代ヨーロッパ 思想、資本主義的科学技術の発達の礎となったのでしょう。また後に数式に記号が取り入れられて、数式が 個別の計算式から普遍性を追求する手段となって行ったのも、まだ自然な流れとして理解出来る気がします。 しかしそこから数学の発展が概念化を生み出し、更に電子計算機の誕生へと発達していく過程は、専門的過ぎ て私には雲をつかむようでした。 ところが、電子計算機という究極の計算する機械が、心を持つ可能性を示した数学者チューリングについての 記述は、私の好奇心を大いに刺激しました。つまり、暗号の解析のために高度な計算を限りなく繰り返す電子 計算機が、その過程の学習を通して、人間の心に近い能力を獲得する可能性がある、ということです。 これは現代のAIの発達の原型でもあり、高度化して人間の身体性を排除した数学が、再び身体へと回帰したと いうことでしょうか?また次の章で取り上げられた、日本を代表する数学者岡潔は、数学から出発して東洋的 思想へと至る、正に数学的思考と身体の調和を体現した人物かも知れません。

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