2016年8月5日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載79には、
人間が当然とあがめる神の創造の技に、吾輩が猫なりの注釈を試みる、次の
記述があります。
「従って神が彼ら人間を区別の出来ぬよう、悉皆焼印の御かめの如く作り得た
ならば益々神の全能を表明し得るもので、同時に今日の如く勝手次第な顔を
天日に曝らさして、目まぐるしきまでに変化を生ぜしめたのはかえってその
無能力を推知し得るの具ともなり得るのである。」
今日の個性が何より重視される社会の価値観から考えると、あっと驚く解釈です。
なぜと言って、工業製品のように寸分たがわぬ製品を作ることを、人間の顔の
造作にも求めているのですから。これは多様性の全否定とも言えるでしょう。
しかし他方、意表を突く視点という意味では、漱石の慧眼を見る思いもします。
確かに物事というのは、見方によっては180度評価が変わるということです。
また均質なものを作ることの難しさということも、日用品がまだ手工業によって
製作されていた漱石の時代にあっては、一定の説得力があったのかも
しれません。
しかし私たちがこの記述から学ぶべきは、一つの価値を盲信するするのでは
なく、様々な視点を確保するために、心の余裕と広い教養を積むべきである、
ということではないでしょうか。
少なくとも漱石にはそれがあり、またそうありたいと考えていたのでしょう。
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