2024年12月12日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3073を読んで

2024年5月1日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3073では 思想家、武道家内田樹の『だからあれほど言ったのに』から、次の言葉が取り上げられています。    知的であるためにはある種の無防備さが    必要だ この言葉は、一瞬矛盾しているように受け取れます。でも、説明を読むと、なるほどとうなずかされ ました。 内田によると、「無知とは知識の欠如ではなく、ジャンクな情報で頭がぎっしり詰まっていて新しい 情報の入力ができない状態」のことだそうです。 確かに、教育が皆に行き届かなかった過去においては、無知とは教育を受けることが出来なかった人 が陥る状態ということだったでしょう。しかし、ある程度の経済水準を達成し、義務教育制度が整備 された現在の日本では、原則としてこのような要因による無知を抱える人は、非常に少ないでしょう。 むしろ内田が指摘するように、マスメディアは言うに及ばず、SNSによる情報が氾濫する現代において は、かえって無駄な情報によって頭がいっぱいになっている為に、本当に知るべき情報を入力出来ない ということが起こりがちであるように思われます。 しかも今日は、社会の変化が激しく、新しく身につけるべき情報が膨大な量に達するだけではなく、 価値観の変容の速度もめまぐるしいために、必要な情報を正しく受け取る脳の態勢を整えることも、並 大抵ではないと推察されます。 では、この難題を解決するためには、どのようにしたらいいのか?内田は、ここではそのように仕向け る教育の重要性を説いているようですが、なるほど学生の頃にそのような習慣を身につけることが重要 でしょうが、この問題は社会人になってからも付きまとう問題であると思われます。 私たちは、世に氾濫する情報をうまく整理して、その中から正しいものを受け取るようにするために、 自らの客観性や洞察力を常に鍛えなければならないと思います。

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