2024年12月25日水曜日

「鷲田清一折々のことば」3082を読んで

2024年5月10日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3082では 思想史家・藤田省三の「藤田省三著作集まえがき」から、次の言葉が取り上げられています。    自分の後ろ姿は全き完了形として手も眼    も加えることが出来ない。 少し難しい表現ですが、自分の後ろ姿は、自分の目では直接見ることが出来ない。一方、他人は 自分の気づいていない自分を目撃している。人の眼差しには常に死角がある。という意味だそう です。 なるほど本人は、自分の心の内は認識することが出来るけれども、後ろ姿で何を発信しているか は、自分では確認することが出来ません。それゆえ、他人が自分のことをどう思っているか、 どのように捉えているかということが、余計に気になるに違いありません。 でも、いくら努力しても、自分の後ろ姿や佇まいを見ることは困難です。では、他人にどう見ら れているかという不安や気がかりを解消するには、どうすればいいのでしょうか? 一つは自らの内面を磨き、見られても恥ずかしくない自分を作り出すこと。もしくは、他人の目 など眼中にないようにするために、平静を保つ精神力を養うことでしょうか? しかし両解決法には共通するところがあって、要するに精神力を磨くことは、自分自身の自信を 生み出し、他人の目に揺らがない確固たる自己を生み出すことなのだと思います。 なかなか難しいけれど、私自身もそのようでありたいと思います。

2024年12月18日水曜日

平野啓一郎著「マチネの終わりに」を読んで

中年を迎えた天才的クラシックギタリストの蒔野聡史と、国際ジャーナリスト小峰洋子の、運命的でありながら、 実らなかった恋を描く、恋愛小説です。 二人の職業柄、芸術や国際政治の問題が、彼らの関係に深い影を落としますが、悲恋小説の王道とも言える、 ほんの少しの行き違いが運命を暗転させるストーリー展開が、切なく感じられました。 まず感銘を受けたのは、蒔野が招待されたマドリードでのギターフェスティバルの往路、洋子の住むパリに立ち 寄り、既に婚約者のいる彼女に愛を告白し、その返事を確かめるために帰路にも訪れた彼女のアパルトマンで、 彼女が直前まで派遣されていた紛争中のイラク、バグダッドから、身の危険を感じて彼女を頼り、避難して来た、 イラク人の若い女性と出会い、この女性を慰め、勇気づけるためにギターを弾く場面です。彼は、自分のギタリ ストとしての使命感と、他にはこの女性を癒やす方法を見いだせないために、ギターを手に取りますが、洋子の 部屋で、無心に美しい音楽を奏でる蒔野と、その音色に感動する怯えた避難民の女性、そして慈愛を持ってこの 様子を見守る彼女の間に流れる掛け替えのない時間は、蒔野と洋子の愛を確信させ、静かな深い感動を与えます。 それまでの描写で、蒔野の天才ゆえの一種鼻持ちならない性格に、辟易することがありましたが、この場面を 経て、彼自身が芸術的にも一皮むけたように感じられました。 次に印象に残るのは、一人の人間の少しの嫉妬、悪意と時と偶然の悪戯によって、二人の愛が決定的なすれ違い を生み出す場面です。もし休暇で日本を訪れる洋子の飛行機が遅れなければ、その時蒔野のギターの恩師が脳 出血で倒れなければ、あるいは、病院に向かう彼がタクシーに携帯電話を忘れなければ、その携帯を彼を個人的 にも慕い、後に彼の妻となるマネージャーの三谷に、取りに行かせなければ・・・。 この場面をよんでいて、歯がゆさとやるせなさに、胸が締め付けられる思いがしました。これほど悪いことが 重なることはあり得ることか?しかしこれは物語上の事とは言え、現実においても悲劇的な出来事は、往々にし て悪い偶然の重なりによって、もたらされるとも思われます。 その意味では読書によって、このような理不尽な体験をすることは、私たちに実人生の不幸な場面での心の処し 方を、学ばせてくれるかも知れないと感じました。

2024年12月12日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3073を読んで

2024年5月1日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3073では 思想家、武道家内田樹の『だからあれほど言ったのに』から、次の言葉が取り上げられています。    知的であるためにはある種の無防備さが    必要だ この言葉は、一瞬矛盾しているように受け取れます。でも、説明を読むと、なるほどとうなずかされ ました。 内田によると、「無知とは知識の欠如ではなく、ジャンクな情報で頭がぎっしり詰まっていて新しい 情報の入力ができない状態」のことだそうです。 確かに、教育が皆に行き届かなかった過去においては、無知とは教育を受けることが出来なかった人 が陥る状態ということだったでしょう。しかし、ある程度の経済水準を達成し、義務教育制度が整備 された現在の日本では、原則としてこのような要因による無知を抱える人は、非常に少ないでしょう。 むしろ内田が指摘するように、マスメディアは言うに及ばず、SNSによる情報が氾濫する現代において は、かえって無駄な情報によって頭がいっぱいになっている為に、本当に知るべき情報を入力出来ない ということが起こりがちであるように思われます。 しかも今日は、社会の変化が激しく、新しく身につけるべき情報が膨大な量に達するだけではなく、 価値観の変容の速度もめまぐるしいために、必要な情報を正しく受け取る脳の態勢を整えることも、並 大抵ではないと推察されます。 では、この難題を解決するためには、どのようにしたらいいのか?内田は、ここではそのように仕向け る教育の重要性を説いているようですが、なるほど学生の頃にそのような習慣を身につけることが重要 でしょうが、この問題は社会人になってからも付きまとう問題であると思われます。 私たちは、世に氾濫する情報をうまく整理して、その中から正しいものを受け取るようにするために、 自らの客観性や洞察力を常に鍛えなければならないと思います。

2024年12月5日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3046を読んで

2024年4月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3046では 詩人、思想家吉本隆明の長女で漫画家ハルノ宵子の『隆明だもの』から、吉本の次の言葉が取り上げ られています。    「何か善いことをしているときは、ちょ    っと悪いことをしている、と思うくらい    がちょうどいいんだぜ」 ハルノが子供の頃、学校で赤い羽根募金があり、場の空気から何となく百円寄付したと父に告げると 「フフフン」と鼻であしらわれたと、この漫画家は本の中で回想しているそうです。 善いことも集団でなせば悪に転じうる。群れずに一人で淡々とやるのが一番強いと、父から学んだと いうことです。 吉本らしい、少し斜に構えたようで、真理を突いた言葉であると感じました。「正義」は振りかざす と悪になりうる。しかも数に物を言わせ押し通せば、暴力にもなりうる。このような事例は、枚挙に 暇がないと思われます。 もし自分が本心から「正義」を為したければ、単独で、少しカッコを付けるぐらいでさりげなく、 行うのが良いのではないでしょうか。そういう「正義」の行いは、ジワリと人々の心にも響くのだと 思います。例えば、『紅の豚』のポルコ・ロッソの行動のように。