2024年8月28日水曜日

「鷲田清一折々のことば」3028を読んで

2024年3月15日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3028では タイの少数民族ムラブリの研究者伊藤雄馬の『ムラブリ』から、次の言葉が取り上げられています。    人間は意味のないことをやりとりすると    きにこそ、仲がよくなる。 そういえば私も、自宅から出かけたり、帰ってきたとき、ご近所の人と他愛ない言葉のやりとりを して来たものです。 曰く、「今日は暑いですね。」「いい天気ですね。」「お早いお出かけで。」などなど・・・ 決して相手から明確な返答を期待している訳ではないけれど、でもこう問いかけて、帰ってくる答え に相づちを打つ。それが何気ないコミュニケーションであり、相手への気遣いなのでしょう。 でも、何か日常生活にせかされるようになり、心の余裕もなくなってきたのか、最近はただ単に挨拶、 更には黙礼だけでご近所の人とすれ違うことが多くなりました。 新型コロナウイルス感染症の蔓延によって、なるべく他者との接触を減らすことを求められた、時期 があったということも影響しているのでしょうが、上記のことばのように、他愛ない言葉のやりとり を減らすことは、他者との関係を希薄にするのだと身をもって感じます。 また少し、道で出会った人との会話を増やすように、心がけましょうか。

2024年8月20日火曜日

近藤一博著「疲労とはなにか」を読んで

私自身65歳を過ぎて、日々疲労を感じやすくなると共に、疲労というものが感覚的なものであるという思いを 強くして来ました。というのは、健康診断を受けても、体調のバロメーターとなる体重、血圧、血液の諸数値 などは数字で示されるにも関わらず、疲労度というものは、自分自身の感覚でしか認識出来ないものと、実感 して来たからです。それ故本書の、疲労とはなにかを生理科学的に探求するという命題に大変興味を持ち、頁 を開くことになりました。 のっけから驚かされたのは、日本と欧米の疲労の受け止め方の違いです。つまり欧米人には、疲労を感じる まで労働することは自己管理の欠如という感覚があり、疲労の科学的研究も重視されてこなかったといいます。 疲労をある意味美徳とも受け止める日本人によって、疲労の研究が積み重ねられて来たことは、怪我の功名と 言えるかも知れません。 さて疲労は、生理的疲労と病的疲労に大別出来、生理的疲労は日常私たちが感じる疲労です。この疲労のメカ ニズムは、体の末梢組織で起こった様々なストレスに反応して炎症性サイトカインが生成され、これば脳に 入ることによって、ストレスに対抗してタンパク質の合成を起こらなくすることで、この時当人は疲労感を 持つというものです。 すなわち、自身の体に与えられた筋肉の過剰な疲れやウイルスの感染、怪我などのストレスに対抗して、状況 をより悪くしないために、新たなタンパク質の生成をストップするという反応だということになります。これ はつまり、疲労感を感じた時には状態が改善するまで、体を休めた方がいいということです。 ここでも驚かされたのは、この疲労の程度を測定するために著者たちのグループは、人間の体内に潜伏する ある種のヘルペスウイルスが、疲労に伴って再活性化する性質を利用する方法を発見したことで、これによっ て疲労の研究は、画期的に前進したということです。 また病的疲労は、慢性疲労症候群やうつ病、新型コロナ後遺症など、正に今日的な疾患ですが、著者たちは、 続いて先ほどのヘルペスウイルスの持つ遺伝子が、慢性疲労症候群とうつ病の原因物質であることを突き止め、 新型コロナ後遺症においても、同様の性質を持つ遺伝子を、新型コロナウイルスが有していることを発見した のです。 これらの原因遺伝子は脳内炎症を誘発して、慢性的な疲労感をもたらすといいます。体内に潜伏するウイルス が、人の気分をも支配するという事実には驚きを禁じ得ませんが、人間は自らの肉体のみならず、体内の細菌 やウイルスと共生することによって、初めて生命を維持することが出来るという現実に、改めて気づかされた 気がしました。

2024年8月14日水曜日

2024年8月度「龍池町つくり委員会」開催

8月13日に8月度「龍池町つくり委員会」が開催させました。まずお詫びすべきは、7月度「町つくり委員会」の 報告を、このブログに掲載することを失念したことで、前回は特筆すべきことはなかったので、今回敢えて 触れることはしまあせんが、以降出来るだけ毎月の委員会の報告を掲載するようにしたいと思います。 さて、今回最初に報告を受けたのは、南先生の京都外大グループによる、祇園祭の役行者山のお手伝いについて で、大原郊外学舎で行われた消防分団主催のバーベキュー・パーティーに参加されたメンバーが、そのとき消防 分団員で、祇園祭における役行者山責任者でもある林さんのお誘いを受けて実現したものです。 その報告によりますと、メンバー6名ほどが、祇園祭後祭りの期間の3日間、ちまき作り、物販、巡航手伝いに 参加されたということで、皆さん今までに祇園祭を観ることはあっても、行事に参加することは初めてという ことで、貴重な体験であったということを実感を持って語ってくれました。 また気づいた点として、祭りの担い手が減少していて、外部の者が積極的に手伝う意味が増していること、以前 に比べて外国人観光客が増えて、英語等での案内表示があれば、彼らにもっとこの祭りを楽しんでもらうことが 出来るのではないかという意見が出ました。 来年以降も、南先生のグループは、町つくり委員会の一員として、役行者山のお手伝いを続けて頂けるという ことで、当委員会は鷹山の日和神楽の龍池学区通行の実現を目指していますので、学区内の他の山、役行者山、 鈴鹿山の各町内に理解を得る為にも、この活動を継続したいと考えます。 次に、町つくり委員会主催の催事として、南先生より、10月あるいは11月の土曜日の夜2時間ぐらい、大原学舎 で龍池学区の子供と保護者対象の天体観察イベント「夜空学級」を行いたいという提案がありました。これは、 子供たちに星座についての説明を行い、その後実際に夜空を観ることによって、天体に興味を持ってもらうと いう趣旨の活動で、参加者は各自家族単位、弁当持参で、自家用車等で現地集合してもらう予定ということです。 この計画を進めるということになり、次回の「町つくり委員会」で更に詳細を詰めることになりました。

2024年8月2日金曜日

丸谷才一著「樹影譚」を読んで

川端康成賞受賞の表題作を含め、三編からなる短編小説集です。やはり作者は、素晴らしい技巧の持ち主と感じ させられ、それぞれ隅々まで目が行き届き、さながら磨き上げられた工芸品の趣があります。 40年近く前の作品ですが、短編の創作技術という意味では、現代を上回ると感じられます。つまり、現在のそれ は形より感覚が重視され、また世の中が更に複雑化、個別化して、その結果主題が表層化、それでいて細分化 されて、奇をてらったり、意表を突くような語り口が重視されているように感じられます。その点本書の三部作 には、『夢を買います』が少し現代的ですが、オーソドックスに人間心理の深層や人の交わりの機微を掘り下げ、 読後に滋味を感じさせるところがあります。 さて三部作の中でも、やはり一番印象に残ったのは、頁数も最も費やされている表題作『樹影譚』で、景色の中 で壁に映る「樹の影」が、なぜ特定の人を惹き付けるのか、という疑問を契機として編まれた短編小説です。こう して改めて問いかけられると、私にとっても壁に映るそれも適度な濃度の木の影は、穏やかさや、懐かしさを感じ させると思い至ります。 大体が木陰というものが、強い日射しや暑さから人を護るという意味で好ましいものと考えられ、風景画などでも 「樹の影」は魅力的なものとして描き込まれている場合が多いです。更にその影が壁に映るとなると、それは人に 限定された特別な情景を思い起こさせることになるでしょう。 この短編では、この主題に対する作者の文学的な博覧強記を提示した後、作者自身の創作した物語へと移って行き ますが、その物語の主人公、幾分作者本人を投影していると思われる、小説家、文芸評論家古屋逸平は、故郷に 帰省した折に、彼の読者というある旧家の老女の元を訪れ、嘘とも誠ともつかぬ自身の出生の秘密を聞かされます。 そして半信半疑の内に、彼にこの話を信じさせる根拠となるのが、この「樹の影」の記憶なのです。 物語の結末近くに至り語りは一気に暗い熱を帯び、彼の記憶は、混乱の中に遠く前世まで遡って行きます。人間の 深層心理の不思議をえぐり出す、傑作であると感じました。