2024年7月26日金曜日

「鷲田清一折々のことば」3021を読んで

2024年3月8日付け朝日新聞朝刊「鷲田清一折々のことば」3021では 劇団「変態」の情報誌「IMAJU」(第81号)から、比較文学者西成彦の次の言葉が取り上げられています。    過去の古傷とともに生きる生き方を身に    つけるのが、老いるということだ。 確かに人は生きる上で、様々に心身を傷つけられ、それにじっと耐えて生きながらえてきたに違いあり ません。 特に「弱者」という立場にある人は、なおそのような逆境に立たされる機会が多いと思われます。でも ここで言うところの「弱者」は、何も特定の限られた人ではなく、逆に大多数の人が「弱者」で、それ こそ「強者」こそがごく限られた一部の人でしょう。 このように考えると、大部分の人が心に傷を負い、それに耐えながら生きて、年老いていくことになり ます。 でも傷つき耐えるということを、何もネガティブにだけ捉える必要は無いのではないでしょうか? つまり、人にはこのような逆境に耐えて、自分の心が鍛えられていくという側面もあると、思うのです。 そのように古傷をうまく飼い慣らし、自分の心の糧として生きていく。そうすることが出来たら、自らが 「弱者」として被った悪意を再生産して、他者を「弱者」に仕立て上げることもせずにすむでしょう。 少なくとも私はそのようにありたいと、心がけていきたいと思います。

2024年7月18日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3015を読んで

2024年3月2日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3015では フランスの批評家ロラン・バルトの『記号の国』から、次の言葉が取り上げられています。    贈られる物は中味ではなく、その箱であ    るかのようだ。 この批評家は日本を訪れ、人々の贈答行為、とくにその包装に強い印象を受けたといいます。 木や紙の箱に入れられた贈答品は、のし紙をかけた上に、水引できれいな結び目を付けて結ばれ、 さらに美しく折り目を付けた包装紙で包まれて、相手に渡されます。 このような習慣のない欧米人には、時には、中味よりも包装装飾の方が立派に見えるかも知れま せん。 でも日本人のこの習慣は、相手に贈る品に更に値打ちを付けるために、行われていると推察され ます。 つまり贈答品に、相手への真心、敬意を加味することによって、よりこの行為のかけがえの無さ を演出していると思われるのです。 物を贈るという行為にも、贈り主が満足することよりも、相手が喜ぶことを第一に考える。相手を まず立てるという日本人の習慣は、良きにつけ悪しきにつけ、廃れて来ているように感じられます。 それは仕方の無いことかも知れませんが、私は少なくとも、真心を込めて贈られるにふさわしい 私の店の商品を、これからも提供して行きたいと考えています。

2024年7月11日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3002を読んで

2024年2月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3002では 作家多和田葉子の随想集『カタコトのうわごと』から、次の言葉が取り上げられています。    感性は思考なしにありえないのに、考    えないことが感じることだと思っている    人がたくさんいる。 そういえば我々は、感性といえばただ感じることで、考えることとはまた別だと思い込んで いる場合が多いと思われます。でも感じるためには、思考を通して感性を鍛えることが必要 なはずです。 ではどうして、このような捉え方が生まれたのか?私が思うに、一つは瞑想を重視するよう な仏教的な思想によって、自然のありのままを感じることが何よりも必要というような、 無念無想を奨励する価値観を身につけているから。 あるいは、このコラムでも取り上げられているように、日本人が男性的な固い思考に拘泥し て、女性的な柔らかい思考を感性という言葉で括って、一段下に見ているから? いずれにしても、現代社会では、ますます美意識や柔軟な思考によって鍛え上げられた、 感性の価値が増しているように思われます。 私たちは常に前向きに、感性を磨き上げるべきでしょう。

2024年7月5日金曜日

森田真生著「数学する身体」を読んで

私自身大学は文系の学部に進んだので、数学を学んだのは高校生の時までで、それ以降はどちらかというと 数学と無縁の生活を送って来ました。だからどこかで、数式を見ても何かよそ事のように思ってしまうとこ ろがあります。 そんな私が本書を手に取ったのは、数学に苦手意識はあるけれど、現代のような高度にIT化された社会では、 数学的思考法が必要ではないかと考え、そのようなものに少しでも近づけたらと思っているからでもありま す。 さて本書を読んで、私に数学というものへの知的想像力が足りないからか、何か核心に触れられないもどか しさと、消化不良のような不全感を感じました。しかしその反面、すんなりと腑に落ちた部分もあり、知的 好奇心をかき立てられた部分もありました。その相反する感覚がモヤモヤと後を引いていますが、ここでは それが正しいかは別にして、本書によって自分が納得させられた点、知的な刺激を受けた点について、書い てみます。 まず数学が、数の計算という実用から始まったことは、私でも想像がつきます。人間は手の指が10本、足の 指が10本なので、それ以上の数を正確に把握するために、計算法が生まれました。また数学における十進法は、 人間の身体の構造から自然に導き出されたのでしょう。この点において、数学が身体と深く結びついた学問で あることは理解出来ます。 そして古代ギリシアで幾何学的な証明が発達したことは、ギリシア哲学とも密接に関わり、近代ヨーロッパ 思想、資本主義的科学技術の発達の礎となったのでしょう。また後に数式に記号が取り入れられて、数式が 個別の計算式から普遍性を追求する手段となって行ったのも、まだ自然な流れとして理解出来る気がします。 しかしそこから数学の発展が概念化を生み出し、更に電子計算機の誕生へと発達していく過程は、専門的過ぎ て私には雲をつかむようでした。 ところが、電子計算機という究極の計算する機械が、心を持つ可能性を示した数学者チューリングについての 記述は、私の好奇心を大いに刺激しました。つまり、暗号の解析のために高度な計算を限りなく繰り返す電子 計算機が、その過程の学習を通して、人間の心に近い能力を獲得する可能性がある、ということです。 これは現代のAIの発達の原型でもあり、高度化して人間の身体性を排除した数学が、再び身体へと回帰したと いうことでしょうか?また次の章で取り上げられた、日本を代表する数学者岡潔は、数学から出発して東洋的 思想へと至る、正に数学的思考と身体の調和を体現した人物かも知れません。