2019年12月27日金曜日

佐々木閑「現代のことば 自己をみつめる」を読んで

2019年12月12日付け京都新聞夕刊「現代のことば」では、「自己をみつめる」と
題して、インド仏教学専攻の佐々木閑花園大学教授が、なかなか寝付けない夜
などに、過去の恥ずかしい体験などが突如よみがえって来て冷や汗をかく、自ら
の経験から語り起して、「おのれと向き合う」とは本来どういうことであるかについ
て、語っています。

佐々木教授は翌朝目覚めると、そういうことはコロリと忘れていると述懐して、
人間の精神的安寧を得るための、自己防衛本能にも言及していますが、私も
こういった経験はしばしばあると頷きながら、自分の場合は更にたちが悪いこと
に、朝起き掛けのまだ完全に覚醒していない時に、こういう恥ずかしい体験が
不意に思い起こされて、そういう時には決まって寝覚めが良くないので、出来る
だけそこから注意をそらそうとしている、という事情があります。

いずれにしても、自らが反省すべき恥辱に満ちた体験は、普段は心の奥深くに
息をひそめながらもわだかまっていて、何かの拍子に顔をのぞかせる、という
ことなのでしょう。

また佐々木教授は、「真実を正しく見た時に、私たちは本当の安楽を得ることが
できる」という釈迦の教えを紹介して、「自己防衛のフィルターがなにかのきっか
けではずれた時に突如として浮かび上がる真の自己と、正面から向き合って
初めて、自分自身の未熟さ、愚かさ、至らなさをしみじみと感じることができる」と
語っています。

私は若い頃にはなかなか自分に自信が持てず、自らの存在や言動に常に恥ず
かしさを感じていました。そこから歳を重ねるうちに、だんだんあるがままの自分
で良いと肯定できるようになって、やっとその恥辱の感覚から解放されました。

しかしその解放感は、自己防衛のフィルターに閉じこもることによって、得られた
ものに過ぎないのかも知れず、私の寝起き掛けの恥ずかしい体験の回想は、
更に自分自身と向き合えと語りかけているのかも知れないと、このコラムを読んで
改めて感じました。

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