2019年11月30日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」1655では
作家・金子光晴の随想集『人よ、寛かなれ』から、次のことばが取り上げられてい
ます。
どんな歴史でも、あとから、あとから押して
くる現実に、追いたてられるようにしてすぎ
ていくものらしい。
一日の生活時間を振り返ってみると、その瞬間、瞬間には緩急があって、あれよ
あれよという間に過ぎ去る時間から手持無沙汰で所在ない時間まで、色々なバリ
エーションがあると感じられますが、結局終わってみると、今日もあわただしい一日
だった、ということになります。
そう考えると、そのような個人の時間の集合体である歴史も、急き立てられるように
過ぎ去って行くことに、なるに違いありません。
でも、そんな歴史の中の小さな歯車としての自分が、巨大なうねりに流されないで、
独自の緩やかな時間を紡ぐには、よほどの諦念か覚悟を持つことが、必要である
でしょう。
私など、伝統産業的な職業に従事して、もとより社会の先端の動きに比べて、周回
遅れのような生活時間を送っていますが、それはそれで時折世の中の動きを垣間
見て、焦燥感や無力感を味わうものです。
ただ、置かれた現実は今更変えようがないので、開き直ってこの環境を基調としな
がら、可能な範囲で最新の動きも受け入れながら、世の中と折り合いをつけて生き
ることが出来ればと、考えています。
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