2017年1月31日付け朝日新聞朝刊、鷲田清一「折々のことば」653では
新約聖書(前田護郎訳)の「ローマ書」から、次のことばが取り上げられています。
見える望みは望みではありません。・・・・・われらに見えぬものを望む以上、
忍耐して待つのです。
このことばを読んだ時、何か心に残るものがあり、その後スコセッシ監督の
「沈黙 サイレンス」を観て、さらに感じるものが深まったように思います。
映画の中で神の沈黙は、あるいは主人公の神父を試しているのかもしれません。
しかし自らの肉体的な苦痛ではなく、自分の存在のために科せられた愛すべき
信徒の受苦であるならば、神のいつ訪れるとも知れない救済を待つよりも、自らが
背教という罪を被ることによって、信徒の苦しみを救うことの方が、本来の神の心に
適うことのようにも、感じられます。
しかし信徒を苛むという手段によって神父を転ばせるという刑罰の存在自体が、
当時のキリスト教徒の信仰の固さを表しているとも言えるでしょう。そしてそれほど
までに、宗教的忍耐というものは、情熱的で堅固なものであったのでしょう。
私たちの身の回りの社会では、信仰の形もだいぶ変わって来ているとは思います
が、不信心な私などは、物質的には目に見えないものを一途に信じる心という
ものに、ある種畏敬の念を覚えます。
あるいはまたそのように信じることが出来る人は、心のよりどころを持っている
ことによって、容易ではない苦しみにも耐えることが可能なのでしょう。
私自身は宗教的な雰囲気にはとても馴染めるとは思えませんが、何か自分の
心の中に確固とした信じることが出来るものを持って、心迷わず、忍耐強く、この
残りの人生を歩むことが出来たらと、常々考えます。
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