2025年12月25日木曜日

加賀乙彦著「岐路 上巻」を読んで

戦前から戦後にかけて、時田病院の病院長時田利平を中心とした一族の行状を、主に娘姉妹の視点から 述懐する、自伝的大河小説です。上巻では2.26事件までを扱います。 上巻で特筆すべきは、利平という人物の魅力的な造形で、勿論現実にはこれほど万能な人間は存在する はずがなく、あくまでフィクションとは言え、日露戦争に軍医として従軍、日本海海戦で医師の立場と して華々しい戦功を遂げて叙勲を受け、除隊後は時田病院を設立し、外科医としての名声から同病院を 大病院に育て上げ、またその医師としての技量は、高山の設備の整わない場所でも難易度の高い外科 手術を成功させるほど神がかり的で、そればかりか実際の医療技術のみならず、富士山頂を含む各地点 の紫外線量を現地に赴いて測定の上執筆した、結核菌への効能にまつわる論文によって、六十歳を過ぎ て医学博士に認定され、他方公の著しい活躍だけではなく私事においても、情熱的で強引な恋愛によっ て菊江を二度目の妻に迎えた上に、老いてから自病院の元看護婦秋葉いとを公認の妻として囲う。 そのあたかも、全能の存在めいた描かれ方は、無論今日では倫理規範からも許容されるものではありま せんが、明治生まれの人間の気概や反骨心を見事に造形化していると感じました。そしてこのような 人物を現在の視点から見ると、良きにつけ悪しきにつけ、日本人が敗戦によって失ったものへの懐旧の 念を禁じ得ない気がしました。 さて利平の長女初江は、わがままに育ったこの頃の上流階級の子女に相応しい存在で、親のすすめで 資産家の男と結婚して三男を設けますが、満たされぬ思いを夫の姉の子の若い学生との情事で補います。 人前では万事如才なく振る舞いますが、凡庸な人物に感じられました。 それに対して、次女夏江は、東大セツルメントでボランティア活動をするなど、労働運動や生活困窮者 の生活改善に興味を持ち、それでいて熱心に求愛して来た義兄の姉の子の急進派の陸軍将校敬助に好意 を抱く、自己矛盾を抱えた人物です。 いよいよ2.26事件が勃発して時代は戦争への坂道を転げ落ち、彼女の運命はどうなるのか、大いに興味 をそそられる中で、上巻は閉じられました。

0 件のコメント:

コメントを投稿