2016年12月13日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載158には
東大の理科で寒月が球を磨くのを見た迷亭の伯父さんが、寒月の行為に
かこつけて近代科学を批判する、次の記述があります。
「「凡て今の世の学問は皆形而下の学でちょっと結構なようだが、いざとなると
すこしも役には立ちませんな。・・・」
件の迷亭の伯父さんは、かなり大時代的な人物ですが、それにしても、現代に
おける学問の評価とは隔世の感があります。何故なら近年は文系の学問を
相対的に低く見たり、理系でもすぐに利益に直結しない基礎的な学問が学生に
人気がないなどの、傾向が現れているのですから。
現代社会が価値を置くのは、精神修養ではなく、実際的な利益ということでしょう。
勿論その当時と比べて社会が動乱の時代から遠ざかり、表面的には人々が
平和の継続を疑わない時代であることも、少なからず影響しているに違いありま
せん。
いずれにしても、漱石の作品を読んで明治時代のものの考え方の傾向に触れる
ことは、現代に生きる私たちにとって、時に当時の価値観に照射される今の世の
有り様を再認識することにつながるように感じます。このことも、100年後に漱石を
読むことの楽しみの一つでしょう。
また寒月が玉を磨く記述から私が連想したのは、西洋において科学がまだ魔法や
錬金術から独立する以前の黎明期の姿でした。基礎的な学問に没頭する彼の
様子は、純粋な科学の本来の魅力を、示してくれているように感じました。
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