2016年11月30日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「吾輩は猫である」連載151では
鏡で自分の顔をとっかえひっかえ覗き込む苦沙弥の様子を見て、吾輩が展開する
人間論、人生論の中に、次の記述があります。
「鏡は己惚の醸造器である如く、同時に自慢の消毒器である。もし浮華虚栄の念を
以てこれに対する時はこれほど愚物を煽動する道具はない。・・・しかし自分に愛想
の尽きかけた時、自我の萎縮した折は鏡を見るほど薬になる事はない。・・・」
この考え方は、漱石の美学でしょうか?確かにうぬぼれが自惚れを増長する姿は
醜悪この上ないものであり、出来ればそんな人にはお近づきになりたくないと、
誰しも思うでしょう。
しかしそれに対して、自身の欠点、醜さを十分に自覚して日々を生きることは貴い
ことであると、漱石は述べています。己の分を悟るということは、禅の教えにも
通じているのでしょうか?
確かに世の中には、自分にやたらと自信を持っている人も少なからず存在し、
そういう人に限って発言力や周囲への影響力も大きいので、何かと目立ちやすい
ものです。しかしその人物の自信が裏付けのないものであったなら、得てして
周りに迷惑を及ぼす存在となります。
他方、決して自分の考えを声高に主張はしないけれど、自分自身についても、
そして周囲のことも、物事の本質をよく理解していて、この人が控えめに口に
する発言は、重みがあり、周りにも十分に役に立つということがあります。
漱石はそういうことを言いたかったのではないかと、私自身の願望も含めて考え
ました。
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