2024年9月19日木曜日

古井由吉著「楽天記」を読んで

老境を迎えつつある思索的な作家の日々を綴る、現実と内面世界のあわいを描くように思われる、長編小説 です。 まず私の心に残ったのは、この作品に流れるゆったりとした時間です。本書が書かれたのが30年以上前なので、 現在と単純に比較は出来ませんが、もう作家自身が死去しているとは言え、もし彼が現在存命だったとしても、 彼の内面にはやはりこのような時間が流れているだろうと推察させる、そのような普遍的なリアリティがあり ます。 そして本書執筆当時の作者より10歳以上年老いている今の私にとっても、このようにゆったりとした老境で 生死を見つめることは、一つの適わぬ理想であると感じられました。 とはいえ私も老境にさしかかり、作者の綴る心境には、共感できるところも多くありました。まず、旧友の父 の晩年の様子について。伴侶を先に失い、絶望の余り一時俗界との交渉を断つ有様などには、私の人生の経験 の上からも、悲哀を伴ってうなずけるところがありました。 また大学教授であったこの旧友が、体調を崩し連絡が取れなくなった時に、彼の消息を尋ねようと主人公に 近づいた謎の女性。主人公は友人の妻とも親交があるために、この女性に対して慎重な対応をしますが、正に 私も友人の異性関係で微妙な立場に立たされたことが、懐かしく思い出されました。 そして、その友人が突如として亡くなった時には、私も自分の人生の中で失った親しい二人の友の面影が思い 浮かんび、それぞれの印象的な思い出、あるいは亡くなった時の経緯、感慨が蘇り、心なしかしんみりとした 想いに包まれました。 最後に主人公が脊椎狭窄症の手術で入院するくだり。手術前の緊張感や、術後麻酔が覚めた後の感覚が覚醒する 様子、徐々に傷が癒え、身体機能が復活する過程など、私の大腸がん手術の体験と通じるところがありました。 恐らく、ある程度の人生経験を積まなければ、本書のしみ出すような悲哀を帯びた滋味は、味わえないところが あり、その点でも、本書購入後かなりの時を経て読んだことには、意味があると感じられました。

0 件のコメント:

コメントを投稿