2026年1月8日木曜日

加賀乙彦著「岐路 下巻」を読んで

正直下巻は、私にとっては期待に違うものでした。上巻は2.26事件の勃発で終わり、この国の激動の時代 の中で、時田病院の院長一族にどのような運命が待ち受けているかということが私の興味の中心でしたが、 下巻では上巻ほどに彼らの運命は、政治や社会問題の直接的な影響を受けること無く、内向きの生活が描か れることに終始し、しかも物語は、上述の事件後短い期間で終わりを迎えたからです。 つまり下巻は、利平の妻菊江の死去によって、繁栄を遂げた時田病院が衰退の兆しを見せるところで終わっ ています。あれほど万能に見えた時田利平も、自らの体力の衰えと共に勢いに陰りを見せ始め、病院運営か ら私生活まで全般を支えていた菊江の死によって、独善的な姿を顕著にし始めます。菊江の今際の際の懇願 にも関わらず、また子供たちの反発も押し切って、妾のいとを後妻に迎え、病院の放漫経営には拍車がかか り、医師、看護婦など職員の結束も緩んでいくように感じられます。 そのような状況の中で、初江は不倫の子である可能性もある第四子を出産することを通して不倫の解消を 決意し、夏江は菊江の遺志を汲んで、意に沿わぬ利平の腹心の医師と結婚し、母に代わる事務長として病院 経営と父の素行の矛盾を一手に引き受け、力尽きて、離婚と病院を去ることを決意します。 物語はここまでしか語られず、読者はその後の日本の破局という歴史的事実を知っていますが、この病院や 人々にどんな運命が待ち受けているかは分かりません。ただ予測出来ることは、一時の繁栄の後の空しさだ けです。 下巻で唯一当時の時事情勢を知らせてくれるのは、冒頭の敬助の目を通した2.26事件収束の顛末です。 果たしてこれが史実通りであるかは分かりませんが、綱紀粛正を唱えた一部血気盛んな若手陸軍将校が、 当時の内閣の主要閣僚を殺害し、その行動を一時は支持するかに見えた陸軍の大勢は、次第に彼らを罰するこ とによって事態の沈静化を図り、結果として彼らの意に沿わぬ形で、当時の陸軍中枢が政治的発言力を増し、 戦争への坂道を転げ落ちて行くのです。