2025年2月13日木曜日
東浩紀著「訂正する力」を読んで
近頃の日本は、何かと息苦しさを感じさせます。まず、長年の経済の停滞による国際競争力の低下です。今まで
は漠然と感じられていただけでしたが、ここに来て、対外金利差による円安が顕著になって、他の国々との物価
の格差から外国人観光客が急増し、物価高などの要因によって、自分たちの日々の経済活動が思うに任せない中
で、その様子を見ているだけで複雑な気分になります。
また、電話やメール、SNS等による詐欺行為が横行して、人間不信を増幅しているように感じられます。更には、
SNSの炎上現象や、文春砲に代表される、著名人の不道徳の過度の告発は、人々の社会生活を萎縮させているよう
に感じられます。他にも、少子高齢化、天災の多発や政治不信など、不安をかき立てる要因は、枚挙に暇があり
ません。
このような現状にあって、東浩紀の提唱する「訂正する力」は、確かに切れ味鋭く、説得力のある一つの解決法
であるように感じられます。このことこそが、本書が社会にインパクトを持って迎えられた理由でしょう。日本
人には元々著者が言うように、訂正を良しとしないような一本気な気質があるのでしょう。その性格は長所でも
あり短所でもあります。
その資質は、第二次大戦の敗戦後は、驚異的な経済復興を遂げる原動力ともなりましたが、絶頂期からバブル
崩壊に伴って、一定水準で達成された経済的な豊かさの中で、今度は危機感に目をつむり、現状を肯定して、
対策を先延ばしにするような内向きな思考に導いたに違いありません。
政治的には、敗戦後に制定された日本国憲法は、作成過程に果たして自主的なものであったかという異論はあって
も、その要の平和主義は、画期的な理念に基づくものであったでしょう。しかし、今日の国際環境の目まぐるしい
変化は、否応なしにその更新の必要性を示しています。
あるいは、資本主義の高度化、IT化による、スピードと効率の重要性の増加は、益々人々に無駄の排除や、即断
即決を求めますが、そのような時にこそ、一歩退いた視点で冷静な判断を下す必要性も、増しているのでしょう。
日本人がいたずらに劣等感にさいなまれ、悲観主義に陥るのではなく、もう一度自信を取り戻し、前に進むため
にも、本書の「訂正する力」は、思想的カンフル剤となり得ると、私は感じました。
2025年2月6日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3096を読んで
2024年5月25日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3096では
彫刻家・批評家小田原のどかの展覧会《ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?》
の図録でのインタビューから、次の言葉が取り上げられています。
「歴史のもしも」を考えることが「抵
抗」になりうる
この展覧会を観ていないし、図録も読んでいないので、私の憶測の域を出ないのですが、「ある種の作品
にのみ不変の価値を認める美術史の制度は、政治的な負荷のかかった規範とその解釈の歴史であった」と
小田原も語っているようなので、現在定着している美術史を批判的に捉え直すことの必要性を、彼女は
訴えているようです。
確かに現在流通している美術史は、蓄積されてきたものであるにしても、ある作品の歴史的な位置づけや、
評価は、これからも更新される可能性があるものですし、それで確定したものということはないでしょう。
例を挙げれば、印象派が出てきた時には、新古典派の絵画が主流であった画壇や批評家たちによって、
散々けなされたようですし、その中で徐々に受け入れられて、今日の評価を得ている訳です。
またナチスは、政権を担当していた時、伝統的な絵画表現を評価し、前衛的な表現手法の画家やその作品
を弾圧しました。それ故、歴史のもしもは、新たな可能性を見出すことにもなるのでしょう。
その意味では、埋もれた画家の発掘、再評価の試みなどは、現在の価値観に抵抗を示す、刺激的な試みで
あるのかも知れません。そのような画家の作品に出会った時の私の喜びは、評価の定まった作品に接する
時の安心感に比して、心をざわつかせるものであるに違いありません。
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