2026年2月26日木曜日
大江健三郎著「治療塔惑星」を読んで
大江による近未来SFと言っていい小説です。本書は前作『治療塔』の続編のようなので、前作を読んでいない
私には、前提条件を知らないという意味で、読了しても全体に対する十分な理解を得られなかった可能性が有
ります。
しかし本書は、私自身映画でしか観ていませんが、『惑星ソラリス』や『2001年宇宙の旅』に匹敵する
人類の将来に対する哲学的命題が提示されているように感じられ、私も示唆に富むところが多かったと考える
ので、本書のみによる感想を記すことにしました。
例えば「治療塔」という装置の正体について。本書には「治療塔」の具体像は何も記されていません。ただ
この装置が宇宙の向こう側からもたらされたものであり、核汚染などで疲弊した地球から、人類の代表が新天
地を求めて宇宙航海の末到達した「新しい地球」で、それが発見されたこと。
「新しい地球」を発見した地球の先遣隊は、一部その決定に反旗を翻した反乱軍を除いて、地球に帰還する
ことになりますが、地球の荒廃が進むにつれて、再び地球への「治療塔」の導入を目指して、「新しい地球」
に調査団を派遣することになります。
これらのストーリー展開から推測すると、「治療塔」とは、不老不死をもたらす高度な医療装置ということに
なります。もしそうであると前提するなら、この物語は人類が医療技術の発展によって、不老不死を達成する
ことの是非を問う小説であると読めます。
まず人類は環境の悪化した地球を捨てて、不老不死という究極の目的を求めて新天地に赴きますが、その「新
しい地球」には確かに不老不死の装置はありますが気候風土は厳しく、大多数は帰還を選択します。しかし
一部はそこに残り、「治療塔」を使わず環境を改良して、人工的ではありますが、一種理想的な生活を送りま
す。
他方、勝手に「新しい地球」に到達した人々が居て、彼らは「治療塔」を使いながら、粗暴で享楽的、破滅的
な生活を送ります。そして地球に帰還した人類は、再び地球への「治療塔」の導入を求めるのです。
かなり物語を単純化してはいますが、人類の科学技術の発達がもたらす、様々な矛盾、葛藤、滅びへの予感を
見事に暗示していると感じられました。
もう一点、「新しい地球」からの帰還組の親から生まれた一人の子供が、最新技術によって生み出されたネズ
ミ状の小型ロボットを用いて、飼い猫を悪びれることなく惨たらしい死に至らせる描写が、深く心に残りまし
た。
2026年2月18日水曜日
京都国立近代美術館「セカイノコトワリー私たちの時代の美術」を観て
私が日頃展覧会に行くのは、美しいものに触れて気分転換を図り、心を癒やすという目的の場合が多い
です。それ故、美への感動よりも、現代の問題を深く考えさせるような展示が多く見受けられる、現代
美術の展覧会は、どちらかというと敬遠する傾向があります。しかしこの展覧会は、題名からも一体今
の世の中はどのような仕組みで動いているのかそのからくりを示してくれるような響きが感じられ、
試しに訪れてみることにしました。
実際に展覧会を観終えて、矢張り非常に難解であると感じました。肌感覚では漠然と今の時代を切り
取っていると感じられるところもあるのですが、それをどう消化したらいいのか、形を伴って理解する
ことが出来ないもどかしさが残りました。勿論考えが形にならなくても、それを感じられたところに
鑑賞した意味があるのかも知れないのですが、私としては、何か納得するところを得たいという欲求を
今も引きずっている状態です。
ただ、高嶺格「Baby insa-dong」は、唯一内容においても、見終えて私の心に強い印象を残すところが
あったので、その作品について若干記してみたいと思います。この作品は、日本人である作者が、在日
朝鮮人二世である女性と結婚することになり、その結婚式の一部始終を写真を連ねて展示し、それらの
写真とシンクロするように作者の時々の気持ちを記した文章を並べた作品です。
結婚に際して、作者が相手の女性を気遣おうとする態度が、知らず知らずのうちに、相手を傷つける、
つまり日本人の意識に摺り込まれている差別意識が浮き彫りになり、その地点から新郎新婦が親族や
友人たちの協力も得て、新しい家族像を作っていく様子が丹念に描かれ、作品を観る者も思わず彼らへ
の共感を覚えずにはいられないように制作されています。
国政選挙でも、外国人問題が大きな争点になる現在、正に時宜に適った作品であると感じました。
2026年2月12日木曜日
梯久美子著「やなせたかしの生涯 アンパンマンとぼく」を読んで
小さい子供に絶大な人気を誇る「アンパンマン」。昨年NHKの朝の連続テレビ小説で、作者やなせたかし
の妻暢がヒロインに選ばれて、やなせ自身にも関心が寄せられました。生前のやなせのイメージは、
特徴的な黒い帽子を被り、いつもニコニコした好好翁という感じで、「アンパンマン」による成功もあ
って、満ち足りた人生を送った幸福な人と捉えて来ました。
しかし、それでも本書を手に取ったのは、小さい頃の娘や今は孫と時々テレビで観る、アンパンマンの
アニメの、自分の顔を腹を空かせた人に食べさせる、異色の自己犠牲のヒーロー像に、作者への興味が
かき立てられ、また本書の著者梯久美子がやなせと深いつながりを持つ人物で、同時に今まで彼女の
著作を数冊読んで、その力量を評価していたからです。
さて実際に読んでみると、私の漠然と抱いていたやなせに対するイメージは、大いに覆されたと言って
いいでしょう。まず彼の複雑な生い立ちです。幼年期に父を亡くし、母も再婚することになって、実の
弟が先に養子に迎えられていた、開業医の伯父に引き取られることになり、その家で兄弟の関係性が逆転
する微妙な立場に置かれることになります。
伯父は出来るだけ公正に二人を養育するように努めますが、弟は学業成績も優秀で、やなせは屈折した
心理を抱くようになります。そして伯父の急死を経ての弟の戦死。自らも徴兵されて中国大陸に従軍した
やなせは、敗戦による急激な価値の転換に打ちのめされます。信じてきた正義が一朝のうちに覆されて、
「ある日を境に逆転する正義は、本当の正義ではない」と考えるようになります。「アンパンマン」は、
そうしたやなせの正義像が託されていると思われます。
彼が新聞社や、企業の宣伝部の勤務を経て、漫画家として独立してからも、絵も詩も文もこなし、様々な
注文に応える器用さと、頼まれれば断れない性格により、彼の名をことさら高めることはなくとも、必要
とされる仕事をこなして行きます。
その中にも、キラッと光るものはあって、童謡「手のひらを太陽に」の歌詞、童話「やさしいライオン」、
詩誌「詩とメルヘン」の編集などが挙げられます。彼の代表作「あんぱんまん」が絵本で誕生したのが
50歳を過ぎてから、アニメ「アンパンマン」がブレークしたのは70歳になってからです。彼が代表作を
生み出すまで、長い紆余曲折があったように思われますが、全てが成功の下地となり、彼の変わらぬ信念
が、晩年の大成をもたらしたと感じられました。
2026年2月3日火曜日
米原万里著「オリガ・モリソヴナの反語法」を読んで
長い読み物にも関わらず、一気に読まされました。この小説が日本のそれにしては、珍しく世界スケール
の作品で、しかも、幼少の頃のノスタルジックな記憶から始まり、その忘れがたい人物の謎を解明する
ために、歴史の真実を掘り起こして行く課程で、ソ連を巡る忌まわしい過去が明らかになる衝撃も相まっ
て、一級のミステリー作品であると感じました。
しかも、夥しい人物の複雑な関係性を交錯させながら、ストーリーに破綻がなく、そこがこの小説の数少
ない欠点の一つとも思われるけれど、息もつかせぬスピーディーさで物語を進行させ、カタルシスを伴う
終焉を迎えさせるところは、著者の並々ならぬ力業を感じました。
先ず私が、本書を読んで印象に残ったのは、普段なかなか知ることの出来ない、当時の共産圏の国の人々
の生活です。著者の実体験を反映する、日本からチェコスロバキアのソ連学校に編入された少女は、豊か
な国際性、文化性を備えたその学校で、個性的な級友に囲まれて、伸び伸びとした学校生活を送ります。
その自由な雰囲気は実際には、共産国の抑圧的な体制の中で、学校関係者によって懸命に守られることに
よって、維持されたものであったけれど、日本の閉塞感の強い学校生活と比較して、考えさせられるとこ
ろがありました。
その自由な学校の象徴的な存在である、名物ダンス教師オリガ・モリソヴナの幾重にも纏われた秘密を、
日本に帰国して30年以上の年月を経た主人公が、謎解きのヒントがあると思われるモスクワを訪れて、
解明を試みるのが本書の主筋ですが、ソ連の共産主義独裁体制がもたらした、戦慄すべき悪夢の実体験に
基づく具体的な記述は、理想国家の建設を目指した清新な思想が、官僚主義や疑心暗鬼、権力欲に次第に
歪められた結果を見る思いがしました。
ただ、その絶望的な状況の中で、オリガが発する罵詈雑言、本書の表題にもなっている褒め殺しと言って
もいい豊かな反語法は、彼女が現状を跳ね返し、不屈の闘志で生き抜く意思表明となっています。
この共産主義という壮大な規模の社会実験における思想、政治、文化の考察に止まらず、人間存在の探求
にまで切り込むこの小説が、しかし、ミステリー性と性急なストーリー展開を意識するあまり、やや駆け
足で、表層的な記述に終始しているところは、少し物足りなく感じました。
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