店主、日々のことども
2025年11月21日金曜日
ルシア・ベルリン著「すべての月、すべての年」を読んで
ルシア・ベルリンの短編集を読むのは、「掃除婦のための手引き書」に次いで2冊目です。前作は、埋もれた
作家の再紹介作品としてアメリカで脚光を浴び、続いて出版された日本でもセンセーショナルをもって迎え
られたのでした。私も前作を読んで魅了され、文庫化に合わせて本作も読んだ次第です。
彼女の作品の魅力の根本には、複雑な生い立ちと経歴があります。本書の著者紹介を見ても、アラスカに生ま
れ、鉱山技師だった父の仕事の関係で、幼少期から北米の炭鉱町を転々とし、成長期の大半を南米チリで過ご
し、3回の結婚と離婚を経て、4人の息子をシングルマザーとして育てながら、学校教師、掃除婦、電話交換手、
看護助手などとして働き、他方、20代からアルコール依存症に苦しみながら、自らの体験に根ざした小説を
書き始めたのでした。この波瀾万丈の生涯から、彼女の作品は紡ぎ出されています。
彼女はこの過酷な人生の中で、境遇を卑下せず、しかし時には自身の弱さをさらけ出し、刹那的で投げやりな
暮らしをしているようで、社会的弱者に寄り添おうとする優しさ、使命感を持ち合わせているのです。この
アンビバレントな彼女の性情が反映されて、彼女の小説に独特の陰影と余韻を生み出しています。
本短編集の中で、私の印象に残った作品は、表題作である「すべての月すべての年」です。夫と死別した教師
の女性が、避暑と孤独を癒やすために1人でメキシコのビーチを訪れ、ホテルでは飽き足らず、地元の漁師が
経営するダイビングスクール兼民宿に泊まり込んで、スキューバダイビングの指導を受けるうちに、海と一体
になれるダイビングの魅力と、指導する老漁師の野性的で、逞しい優しさに魅了され、心を癒やされて、アメ
リカの都会に帰る話です。私はこの作品に、ヘミングウェイの小説に見られるような、自然と対峙する男の
魅力を感じると共に、その男性性に包み込まれることによって、孤独から解放される女性的な野生を同時に見
るようで、深い感銘を受けました。
他にも、「ミヒート」で、先にアメリカに滞在している許嫁の男を頼って、この国に来たまだあどけなさの残
る女性が、男の麻薬での逮捕、出産を経て、せっかく授かった乳児を死なせてしまうまでの話も、印象に残り
ました。最近政治的な問題にもなっている、アメリカの不法移民の問題を、実感を持って感じられる思いがし
ました。
2025年11月13日木曜日
2025年11月度「龍池町つくり委員会」開催
11月11日に「龍池町つくり委員会」が開催されました。
まず、町つくり委員会が後援してきた、「歌声サロン」の今後の運営方針について、前回の「歌声サロン」
開催日に、関係者で協議して決定した事項を、当日は参加されていなかった南先生グループに報告をしま
した。
これは、中谷前委員長がマンガミュージアムのティーズサロンを会場として開催することを決定し、以降
継続して実施してきましたが、今回前委員長が高齢を理由に「歌声サロン」の手伝いから手を引かれること
になり、改めて町つくり委員会による後援をどのようにするかを検討したものです。
結論としては、前委員長が退かれた場合、「歌声サロン」の活動自体が龍池学区外部の人によって運営され
ることとなり、町つくり委員会が後援することは相応しくなく、従って後援を中止して、ティーズサロンの
使用も他の落ち着き先が見つかれば止めてもらう、という方針で、当日関係者と話し合いましたが、話し合
いに参加された前委員長からもティーズサロンの使用の継続を強く求められ、新たに「歌声サロン」代表の
実家である学区内の医院の親族の方に責任者となってもらうことで、活動を継続させるということになった
次第です。
他の報告事項としては、南先生より郊外学舎のある大原の自治連との交流を促進するために、町つくり委員
長である私が、大原の自治連の方と一度顔合わせすることを仲介して頂く提案があり、その方向で日時を
設定して頂くことになりました。
また、祇園祭関連行事として、役行者山の林さんにお願いして、学区民対象の勉強会を開くことについて、
来年6月の土曜日の午後に各回15名で2回開催という形で計画することを決定しました。来年1月には日時
を決定して、準備を進めていくことになりました。
また最近、学区内でマンションの建設工事が増加して、新しく完成したマンション住民に、いかに町内会
活動に参加してもらうかということが、連合会の重要な課題となっていますが、町費を納めることは強制
出来ず、もしそのマンションの住民が町内会に参加しない場合は、京都市からの広報物は配布するが、ゴミ
収集は町内会が運営している収集場所の利用は控えてもらうということを確認しました。
2025年11月6日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3428を読んで
2025年6月24日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3428では
モデル・ラジオパーソナリティ前田エマのエッセイ集『過去の学生』から、次の言葉が取り上げられ
ています。
正々堂々としたかっこいい色気
これは、20代前半、貧乏暮らしの中、3ヶ月分の給料でアメリカ製の水着を買ったという脚本家・向田
邦子のその姿を写真で見た前田の感想だそうです。
当時の向田にとっては、一見分不相応な水着ではあるけれども、彼女はそれを着用するのに気後れしな
い自信と気概を持っていた。それ故、余裕と自負を持ってその水着を身にまとい、それが彼女を魅力的
に輝かせている。
その自信は、どこから生まれているのか?きっと彼女は、自身の心に大きな志を持ち、将来それが適う
ことを確信していたのでしょう。
このような、その時点では身の丈を越えていても、「自分の気持ちに似合う」と感じられる装いをする
ことが出来る心証を「かっこいい色気」と言い切れる前田も、やはりかっこいいと思いました。
この言葉を読んで、私自身まもなく高齢者の仲間入りをする、外見上もあまりぱっとしない人間ですが、
せめて心持ちだけは、気概を持ち続けられるように精進したいと、感じました。
2025年10月30日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3424を読んで
2025年6月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3424では
解剖学者三木成夫の『生命とリズム』から、次の言葉が取り上げられています。
「声を出す」こと・・・によって、人びと
は労働の日々のもたらす慢性の喚起不全、
いわゆる”燻り”から・・・身を護る
人は緊張して息を詰めたり、ハッとして息を飲んだりして体を固くすると、だんだん疲れがたまって
くるようです。我々都会に暮らす現代人などは、毎日が緊張の連続で、なかなか気が休まることが
無いと感じます。
そういう時には「声を出す」。私も無意識にフーとため息をついたり、呼吸を整えたりしていると
思い当たります。これらも緊張をほぐす手段なのでしょう。
でも、一人で黙々と作業をしていたり、ものを書いたり、事務仕事に没頭していると、いつの間にか
疲労が蓄積していると実感することがあります。
そんな時にはやおら立ち上がって、両腕を左右上方に突き上げて、上体を後ろにそらし、思いっきり
伸びをする。近くに他の人が居なければ、ウーと声でも上げればスッキリとします。
また、機会がある時には、大声で歌を歌ったり、何かのひいきチームの応援で声を上げれば、後に
すがすがしい気分を味わえます。
そうして私たちは、知らず知らずのうちに、セルフケアを行っているのでしょう。
2025年10月23日木曜日
「絵のなかの散歩」洲之内徹著を読んで
「気まぐれ美術館」と読む順序が前後してしまいましたが、画商兼エッセイストの洲之内徹の美術にまつわる
エッセイをまとめた本です。
本書の魅力の一つには、著者がかつて芥川賞候補になった小説家の顔を持つこともあって、単に画家や絵画作品
にまつわる話だけではなく、それに絡めて自らの日常や身辺の雑感にも筆が及ぶところで、私には殊に彼が後に
画廊主を引き継ぐ経緯となった、田村康次郎経営の現代画廊の店員時代のエピソードが面白く感じられました。
曰く、写真家の土門拳が友人の画家鳥海青児から預かっていた鳥海の作品「うづら」を現代画廊に売りに来て、
紆余曲折があって、田村に内緒で著者が個人的に購入することになった話。田村が経営者時代に画廊の看板作品
としていた林武の「星女(ほしめ)嬢」が回り回って売りに出された時、その時には同画廊主となっていた洲之
内が意地で買い戻した話。
彼の絵画への並々ならぬ愛情や、画商としての先代経営者への対抗心が垣間見えて、美に魅せられた者、絵を商
う者の気概が感じられる思いがしました。
勿論、彼の業務である、作品を通しての画家との関わりの記述も興味深かったです。挙げればきりが無いですが、
まず岡鹿之助とのエピソード。岡の作品らしい旧作の静物画を手に入れた著者が、確認するために岡の自宅を訪
れ、その作品を本人に見せたところ、最初は色使いが違うと否定されますが、よくよく吟味して色の褪色と何者
かの加筆に気づいて、自分の作品と認定する場面。
あるいは、これをきっかけとして著者が持ち込んだ、藤田嗣治の初期の油彩画を、岡が藤田とのパリでの交友を
回想しながら、真作に違いないと語る場面。
当時日本西洋画壇の重鎮であった岡の飾らない生真面目な人柄が感じられて、好感を持ちました。
また、長谷川潾二郎が夫婦で履歴書を作成したり、スパンコールの手作りの首輪を作ったりして、飼い猫タロー
を我が子のように可愛がり、その結果長い年月を掛けて、あの名作「猫」を描き上げた話。しかもその作品には、
左半分の髭しか描かれていないのです。
この絵画自体から、画家の猫への愛情があふれ出ていると感じられました。
2025年10月15日水曜日
2025年10月度「龍池町つくり委員会」開催
10月14日に、10月度の「町つくり委員会」が開催されました。
この度の議題はまず、中谷前委員長が運営から退かれることになった「歌声サロン」を、当委員会として
これからいかに取り扱うかということについて、議論しました。
「歌声サロン」は、当初学区内の喫茶店で開催されていたものを、その喫茶店のトイレが参加者の高齢化
に伴って不便ということになり、他に適切な場所が無いかということで、前委員長が「町つくり委員会」
が後援することとして、京都国際マンガミュージアム内のティーズサロンに誘致した経緯があります。
あらかじめ開催されていたものを誘致したために、以前からの参加者も学区外の人が多数を占め、学区民
は少数となっていました。それでは龍池学区の施設で開催する意味は薄れるので、今までチラシ、回覧等
を通じて学区民に告知を行い、学区内の参加者の数を増やす努力を行って来ました。
しかし、一向に参加者は増加せず、一方「歌声サロン」は外部の参加者に人気があるようで、いつも定員
オーバーになり、たまに学区民が参加を希望しても入場出来ない事態も起こってきました。そのような
状態では、本来学区民の福利厚生のために利用すべき学区施設の使用方法としては適切でない、という
指摘が以前からあって、この度前委員長が運営から退かれる機会をもって、新たに「町つくり委員会」で
今後の方針を議論することになりました。
その議論の中で話し合われたことは、「歌声サロン」という催し自体は高齢者の健康促進のために有意義
な行事ではあるけれども、学区民の参加が優先されないならば当学区の施設で開催する必然性は無い。
あるいは、当学区自治会は施設の利用料を学区民のために少額に設定しているにも関わらず、「歌声サロン」
の主催者が参加料を徴収して、演奏者などに分配しているのは、学区の事業として適切でないのではないか
ということなどでした。
以上のような検討を経て、次回「歌声サロン」が開催される10月25日に、終了後委員会を代表して委員長の
私が、今期いっぱいで(2026年3月まで)「歌声サロン」の当学区施設での開催を終了してもらう旨を、
主催者側に伝えることになりました。
他の諸課題については、次回委員会で検討することになりました。
2025年10月2日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3416を読んで
2025年6月5日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3416では
京友禅のメーカーを経営する那須修の『京友禅への誘い』から、あるきものの持ち主の次の言葉が
取り上げられています。
「茶席で座っていたら、膝の上の柄に励
まされているような気がした」
このような場合、お茶席で着用するような着物は、手描き友禅の訪問着が多いので、ここに描写
されている着物も、きっとそうであると推察します。
手描き友禅の着物の制作工程は、エバ縫い、下絵、友禅糊置き、地染め、蒸し、水元、友禅色差し、
揮発水洗、刺繍、あるいは金彩加工と、全て別々の職人の手作業によって担われていて、それぞれ
が技術の粋を傾けて作業に当たります。
そのようにして完成した訪問着は、最近の既製品の着物に多く見られるプリント加工の着物に比べ
て、重厚感や何とも言えぬ気品があるものです。
ここで語られているような感慨をその着物の購入者が持たれたら、メーカー側は、制作者冥利に
つきるでしょう。
苦心して作り上げられた品が、着用者の心とも共鳴して、満足のいく茶事が営まれたなら、それ
ほどの着物と所有者の幸福な関係はないと思われます。
本来、ハレの着物とは、そういうものであったと思います。
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