店主、日々のことども
2026年9月17日木曜日
中野重治著「五勺の酒 萩のもんかきや」を読んで
中野が、敗戦後早い時期から約10年間に発表した、短編小説の中の秀作をまとめた短編集です。この時期の
共産党シンパ(反体制派)の著作者の作品を読んだことが無かったので、大変興味深く感じました。
まず『五勺の酒』です。戦前から中学校長を続ける人物が、少量の酒による酔いに任せて、恐らく友人で
ある共産党員に語りかける体の小説です。敗戦によって教育現場でも、教育方針や価値観が180度転換して、
生徒は民主主義の名の下に、教師に反抗的な態度を取る。上からのお達しによって、現場の教員は自己矛盾
を感じながらも、新しい方針に沿って教育を行わなければならないことによる、忸怩たる思い。戦前には、
生徒を鼓舞して戦場に送り出し、結果無意味な戦死を招来した、慚愧の念。あるいは、部下の教師が召集さ
れて戦地に赴き、戦後無事復員は遂げたが、顔面を損傷して痛々しい姿になっているのに、どう接したら
いいのか苦慮する様子。更には、戦前の天皇制には批判的な心情を持っていたが、敗戦によって天皇の地位
が著しく損なわれる中で、天皇個人に対する親愛の情や、哀れみの感情に心がもだえる場面。恐らく、中野
の心が投影された学校長から、他面の心を反映させた共産党員への心情の吐露は、彼の心の揺れを表わして
いるのでしょう。また、戦後早い段階からの日本共産党の運動の硬直化も指摘していて、示唆に富みます。
次に、本書の中で私が最も気に入った作品である『司書の死』です。図書館司書を「おとなしい人々、反抗
的でない人々、破壊的でない人々、善良で、どこかで人間の良さを信じている人々、しかし、消極的なとこ
ろのある人々」と、定義し、終戦後の朝鮮戦争のどさくさの中で、アメリカ出張からの帰路に、不慮の死を
遂げた、友人の図書館司書の死の顛末を記します。そこには、中野の司書、ひいては書物への愛、そして
敗戦後の戦勝国による日本国民への横暴が、示されています。
最後に、『萩のもんかきや』です。主人公が旅先で出会う、戦争未亡人らしいつましい「もんかきや」の姿
が描かれていますが、和装業界に携わる私にとっては、「紋上絵師」(もんかきや)はなじみの職業で、
和装業界が著しく衰退する今日において、感慨深いものがありました。
2026年9月10日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3612を読んで
2026年4月7日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3612では
落語家五代目古今亭志ん生の随筆「テクッて三年」(宮﨑智之編『精選日本随筆選集 歓喜』所収)から、
次の言葉が取り上げられています。
うれしい前にはきまって、心配事や悲し
いことがあるんです。
そう言われれば、確かにそうかも知れない。思わず膝を打ちたくなるような言葉です。
望外の喜びは例外としても、些細な喜び、じわじわとにじみ出るようなうれしさは、それこそ、ちょっと
した憂いや悲しみの後に、フワッとした感じで、やって来るように思われます。
だからそのようなうれしさは、もしかしたら、前提の憂いや悲しみなしには、体感することの出来ない
ものかも知れません。
心配事や悲しいことで落ち込んだ心が、意外性を伴った、些細な喜び事にも感応して、うれしさや幸福感
を生み出すとでも言うように。
ですから、心配事や悲しいことがなければ、些細なこと、微かなことに喜びを感じ取れないのかも知れま
せん。そう考えると、日々の心配や憂いも、先の喜びに結びつく、貴重な機会であるように感じられます。
2026年9月3日木曜日
夏目房之介著「マンガはなぜ面白いか その表現と文法」を読んで
本書の第Ⅰ部は、NHK「人間大学」で行われた著者による講義のテキストで、第Ⅱ部は、一般大学で行われ
た講義録に基づいています。所謂著者による、マンガ学の入門書です。
まず著者夏目房之介は、かの文豪夏目漱石の孫で、奇しくもと思われますが、本書出版から約30年を隔てた
現在、日本のマンガは、世界的な広がりを見せる代表的なコンテンツとなり、大学にマンガ学部が出来てい
ることから考えても、著者は、マンガを学問する先駆者と言ってもいいでしょう。
本書を読み終えて、この頃は間遠になっていますが、小さい時からマンガ、アニメに親しんできた私にとっ
て、今まで漫然と楽しんで来たものの、魅力の秘密がスルスルと解き明かされるような、爽快感を味わう
ことが出来ました。
なんと言っても、本書の核心は第Ⅰ部で、第1章マンガ隆盛の謎で取り上げられている、現代マンガの父
手塚治虫のマンガがなぜ読者を惹き付けたかという部分で、彼の描く目の表情がそれ以前のマンガとは決定
的に違うという指摘に、ハッとさせられました。
確かに、彼以前の『のらくろ』などのマンガにおいては、キャラクターの目は黒い点で表現されて、表情が
単純化されているために、きめ細かい感情表現が出来ません。勢い、ストーリーも単純化されて、説得力の
ある複雑な物語を生み出すことが出来ませんでした。ところが手塚は、ディズニーや宝塚歌劇の影響を受け
て、明解で細やかな感情表現を有する、魅力的なキャラクターを生み出したのです。これ以降、マンガの
表現領域は格段に広がり、個性的な漫画家たちの切磋琢磨もあって、世界規模の読者層を獲得するに至った
のです。
その他にも描線の工夫、「吹きだし」を始めとする言葉の表現法、「コマ」の構成など、読者を惹き付ける
表現効果を生み出す技法は色々とありますが、目の表情の獲得は、現代マンガ誕生の核心の秘訣のように
感じられました。
元々日本には、『鳥獣戯画』とマンガの親近性が指摘されるように、水墨画から発展した線によって絵を
表現する文化がありました。また、最近の情報化が進んだ高度資本主義社会では、物語の世界においても、
単純化、スピーディー化されたものを好む人々を増加させ、映画、テレビでも、実写を含めマンガ、アニメ
を原作にしたものが多く見られます。時代は確実に、マンガ的なものが好まれる傾向を示している故に、
マンガを学問することの重要性も、益々増しているように思われます。
2026年8月26日水曜日
武田百合子著「遊覧日記」を読んで
武田百合子は、小説家武田泰淳の妻だった人で、彼の死後日記文学作品の出版で評価を得て、随筆家と
して活躍したそうです。私はそもそも、武田泰淳の小説を読んだことがなく、当然百合子の名も知りま
せんでしたが、彼女の出世作「富士日記」の評判をどこからか聞いて、まず本書を手に取りました。
読んでみて、その独特のとりとめの無さ、綿でくるむようなフワッとした感触が、心地よく感じられま
した。しかし気楽な物見遊山、世間語りというのでもなく、作者には肩を張らず本質を見抜く、観察眼
があります。その結果この日記文学は、人間の日々の営みに潜む、機微哀歓を滋味深くあぶり出してい
ます。
まず作者は、まだ娘が小さかった頃、家族で暮らしていた夫の実家の寺に、会津から奉公に来ていた
女中の若い女性に習って、あちこちを遊覧すると宣言します。その女性は、休みの日に誰も知り合いの
いない都会で、好奇心の赴くまま色々なものを見て回り、場の雰囲気になじんで目一杯満喫して帰って
きたそうです。
作者もその振る舞いを理想として、無垢な心で貪欲にあちこちを見て回り、感じたことをありのままに
綴ろうというのです。正にそのようなスタンスで、訪問先の情景が記されてゆきます。現在からすると
一昔前なので、各所の風物も興味深いですが、特に彼女が訪れた先で接する人の描写が素晴らしいと感
じました。
例えば上野東照宮の章で、東照宮ぼたん祭りを訪れて牡丹を観賞していた彼女が、句会を催している
グループに遭遇し、その中の和服の女性が、集合の合図があって急ぐ余りに、石畳につまずき倒れる
場面。着物をかばうために頭から突っ込み、衣裳が直接地面につかないように、頭で身体を支えてじた
ばたしながらも力尽きて、石畳の上に平たくなる滑稽な描写。その後に続く、何事も無かったように立
ち上がり、微笑んで集合場所に向かう様子は、その女性の羞恥の入り交じった矜持を感じさせます。
あるいは、京都で作者の女学生の頃の恩師と会う場面。事情は分かりませんが、彼女とその娘は、夫の
墓参に京都を訪れる度に、恩師に会い、食事をごちそうになるという。先生に高価なものをおごらせて
はならないと気遣いながらも、ついつい食べたいものを口に出してしまい、先生に余分の出費をさせて
しまいます。そのやり取り、関係性が、両者の絆を感じさせます。
本書の写真は、作者の娘武田花が担っていて、文章と合わさって、独特の雰囲気を醸し出しています。
2026年8月20日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3610を読んで
2026年4月3日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3610では
編集者白石政明の『ケアと編集』から、次の言葉が取り上げられています。
「あれかこれか」という閉じられた問題
設定そのものに穴を開けて、問いの外に
出る力をその人に差し出そうとしている
例えば患者は、病苦のみならず、なぜ私に不幸が降りかかるのかという「答えのない問い」
にも苦しんでいるという。それを「素手でガッシと」受け止める看護師は、悲観的なこと
でも敢えて明るく伝えるとか、元気に振る舞うとか、矛盾した受け答えになる。苦しみの
受け止め方を変えるには、問いの変換が必要という意味で、上記の言葉が語られている
ようです。
これは大変難しい問題です。理不尽な苦しみに囚われている人を如何に勇気づけ、希望を
もたらすことが出来るか?私の脳裏には、オー・ヘンリーの短編「最後の一葉」が想い
浮かびました。
病気によって生きる希望を失った女性は、ちょうど晩秋の頃、窓から見える壁に伝う植物
の最後の一葉が散ったら、自分も死ぬと考えます。そのことを知った友人の老画家が、嵐
の最中にその壁に一枚の葉を描いて、女性に生きる希望を取り戻させ、自らは嵐に打たれ
て体力を失い、死を迎えるという話です。
ケアをする側も、自らが身体を壊しては元も子もありませんが、「問いの外に出る力」を
悲嘆に暮れる看護される立場の人にもたらすという意味で、「最後の一葉」には象徴的な
意味があると感じます。
2026年8月12日水曜日
2026年8月度「龍池町つくり委員会」開催
8月11日に、第8回「龍池町つくり委員会」が開催されました。
今年龍池学区が当番年である、時代祭の行列について、学区民に準備からの詳細を知ってもらう催しを
開催するかどうかについて、委員会で検討しました。委員長の私が提案したのですが、町費からの積み
立て金によって、原則9年に一回(今回はコロナ禍や順延によって12年ぶり)運営されるこの行事の
内容を、学区民に知ってもらうことには意義があると考え、提案した次第です。
私は、9月24日、25日当たりの午後6時もしくは午後7時からⅠ時間程度の予定で、当学区の行列の担当
である装束店の社長様による説明と、平安神宮からお借りすることが出来れば行列のビデオの鑑賞、
座談会方式による、以前行列に参加された方の体験談披露という内容で、この催しを提起しましたが、
各委員からは、催事に携わって頂く方との予定調整を行い、実際の時代祭の日時も迫っているので、
行列を担う学区の関係者の承諾を得られるなら、この催しを実施してみよいという結論を得ました。
8月29日に開催される「龍池えむえむ夏祭り」については、子供向けのゲームを担当するスタッフが
不足気味なので、今回委員会に参加されている南先生グループのメンバーに、重ねてお手伝いをお願い
しました。現在はその内1名の方の参加が確定したところですが、更なるメンバーの協力を期待してい
ます。
南先生グループからの報告として、10月18日(日)午前10時から12時の予定で、「アサギマダラの観察
&フジバカマ植え付け体験会」を開催するというお話がありました。これは、龍池学区の大原郊外学舎
を利用して、既に植え付けられているフジバカマが開花し、蝶が訪れると思われる同日に、蝶の観察と
翌年向けに新たなフジバカマの株を植えるという催しで、対象は当学区限定10組のファミリー、参加費
は一家族1000円というものです。8月中にチラシ、ポスターを制作してもらって、各町に配布、経費に
ついては町つくり委員会で応分を負担するということになりました。
2026年8月5日水曜日
「鷲田清一折々のことば」3602を読んで
2026年3月24日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3602では
美学者・会社員難波優輝の同紙の連載「にじいろの議」への寄稿(3月11日夕刊)から、次の言葉が
取り上げられています。
私たちは、技術を前提とするのではなく、
技術の意味を問わなければならない。
私たちは今尚、技術の発展への信仰に囚われているのではないか?新しい科学技術、医療技術が開発
されればもてはやし、それで社会が今よりも良くなると信じ込む。
確かに、技術の発展によって生活の質が向上したり、社会活動が効率的になったことは多々あるで
しょう。でもそれが万能薬であるかと言えば、違うのでは無いか?
例えば、SNSの発達は、遠く隔たる多くの人が一瞬のうちにつながり、また親しい人とも直接に会わ
なくても、逐一意思の伝達を行うことを可能にする。でもそこにはフェイクや扇動のリスクがあり、
親密な個人間の関係においても、SNSにかえって縛られたり、いじめの原因になったりするリスクが
ある。
医療技術の発達は、人間の寿命を飛躍的に伸ばし、我々の死生観を根本的に変えたように思われる
けれど、その反面、生命の尊厳への感覚を鈍らせ、ひいては倫理観の欠如や、生きる目的を見失う
ような傾向を生み出しているように感じられる。
今正に、AIが行く末の人間社会に絶大な影響力を行使し、人間を支配するようになる未来が危惧さ
ているけれども、技術の止めどない発展を前提にするのでは無く、長いスタンスでの真に人間の利益
になる技術を賢明に選択して、それのみを発展させるシステムを構築すべきではないか?そのような
思いを強くするこの頃です。
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