店主、日々のことども
2025年7月9日水曜日
2025年7月度「龍池町つくり委員会」開催
7月8日に、「町つくり委員会」が開催されました。
今回はまず、委員長の私から、8月30日に実施される「龍池夏祭り」に、町つくり委員会町からの要請に
より、鷹山囃子方に出演して頂くことを報告しました。内容は、お囃子実演と体験コーナーその後再び
実演というメニューで約40分間行われる予定です。
「夏祭り」全体のスケジュールとしては、5:30~40連合会長の挨拶、5:40~6:00御池中学のコーラス、
6:00~6:30歌声サロンのコーラス、6:30~7:10鷹山お囃子、7:10~7:50医健のバンド演奏、7:50
~8:30マンガミュージアム紙芝居の予定です。
鷹山出演に合わせて、寺井委員が作成してくだっさた告知チラシの見本も、この日の委員会で配布して、
出席者に目を通してもらいました。
京都外国語大学南先生のグループからは、この日は南先生は欠席でしたが、メンバー代表者から、学区内
の町歩きを実施したという報告がありました。この報告によると、前回の町歩きはコロナ渦発生以前で、
かなり時間がたっていることもあり、マンションの増加、町家の減少など、町の様相が随分変化している
ということでした。
マンガミュージアム事務局からは、7月12日から11月25日まで開催される「マンガと戦争展2」と、8月
23日に開催される「おとな妖怪教室 ドロドロ、デンデデン」の案内がありました。
2025年7月3日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3344を読んで
2025年2月20日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3344では
歌人川野里子の納富信留との対話「哲学と詩歌の怪しい関係?」(川野の対話集『短歌って何?と訊いて
みた』所収)から、次の言葉が取り上げられています。
共感のやり取りでは批評という言論が育
たないし、磨かれていかないですね。
つまり、今の人は他人に寄り添うようなコミュニケーションのあり方になじんでいて、下手に批判したら
相手を傷つけるんじゃないかと、過敏になっている。それでは、互いを磨き合うような言論は生まれない、
ということのようです。
これは正に正論です。あまつさえ日本人は他人に気兼ね、忖度をして、本音で相手と渡り合わず、それが
言葉のやり取りの場でも、なあなあの関係を生み出す要因になって来ました。
その上最近は、SNSの影響もあって、更に自身が批判されたり、やり玉に挙げられることを恐れて、真っ向
から本音で語り合うことが回避され勝ちであるように感じられます。
でも上述のように、そのような微温的な言葉のやり取りからは、建設的な言論活動は生まれないでしょう。
では何が肝心か?それはまず、相手との信頼関係を築くことが第一であるに違いありません。
お互いがどんな迫真的な本音の議論を戦わせても、その言辞が相手を傷つける為の物ではないという、相互
の信頼関係があるなら、心置きなく論戦を戦わすことが出来るでしょう。
そういう相手を信じる心が失われていることこそ、真の課題であるように思われます。
2025年6月26日木曜日
高橋昌明著「京都<千年の都>の歴史」を読んで
本書を、自分の生まれた町の歴史を知りたいという単純な動機で読み始めましたが、結果として、この都市に
ついてのもっと深いところまで想いが至る、読書になったと思います。
勿論、京都は長年に渡り日本の都でしたから、その歴史が一筋縄ではいかないものであることは、あらかじめ
想像出来ました。また、私自身にも、歴史的価値観を有する都市が自分の生まれ故郷であるという、出生地へ
のある種の自負があることは事実です。
しかし、この都市に対して私の抱くイメージは、あくまで、自分が生まれてから今日に至る間の環境から受け
た影響に色濃く支配されていて、そういう意味では、和装という市中心部の基幹産業が著しく衰退し、他方
観光都市として他の地域、観光客からの人気は高く、その結果地元民の高齢化と若年層の流出、マンション、
ホテルの林立という具合に、都市の空洞化が進み、かつての輝きを失った過去の栄光にすがる都市という風に
映ります。
だから、もしかしたら私は、この本を読んで、この都市の過去の繁栄を追体験することによって、少し自尊心
を満足させたいと考えたのかも知れません。しかし実際に本書を読んでみると、この都市の来し方は、それほ
ど生半可なものではなく、むしろ歴史に翻弄された波瀾万丈のものであったことが分かります。
まず最初の平安京は、今の千本通り辺りを中心軸として、天皇が居住し、政務を行う平安京(大内裏)を、
現在の京都御苑よりかなり西方に設け、そこから鴨川以東、西京極以西の東西に広がっていました。これは
あくまで計画的に建設された都市で、以降市街地が東部中心に発展したり、頻発した大火、地震、戦乱、為政
者の意向に影響されて、有機的に形を変えながら発展してゆきます。
住人の生活は、衛生面では室町時代頃まで、街路の側溝に糞尿を垂れ流し、その結果伝染病がしばしば猛威を
振るい、自然災害、人災と共に、人々を苦しめたそうです。また治安面では、庶民の暮らしは為政者、権力者
の動向に左右され、応仁の乱や戦国時代の政治権力の空白時には、市街地自体が二分、縮小を余儀なくされた
と言います。
このような厳しい条件の中で、住民は公家、宗教界、武士の勢力の干渉と折り合いを付けながら、町単位の
自治を育んでいったそうです。
この本を読んで、現在の町人気質の成り立ちを知ると共に、一隅の一住民としても、町を再生するための気概
を、奮い立たせなければならないと感じました。
2025年6月18日水曜日
「鷲田清一折々のことば」3342を読んで
2025年2月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3342では
小説家川崎秋子による論考「人間と動物を分かつ壁の向こう側」(「アンジャリ」第44号)から、
次の言葉が取り上げられています。
人間の弱さと傲岸さは、けれどひとつの
武器でもある。
人間は集団で社会生活を行い、特に現代人は、色々な社会システムの庇護の許にあって、もし
単独で野生の世界に放り込まれたら、驚くほど無力な存在でしょう。
それに引き換え野生動物は、限られた環境に特化しているとはいえ、単独あるいは群れという
集団を構成していても、自らの生の目的を遂行するために、懸命果敢に個としての生き様を貫い
ているように感じられます。
客観的に見たら、後ろ向きに思い悩んだり、煩悩に囚われたり、あるいは優柔不断でもある人間
は、随分弱く、欠点の多い存在であるように思われます。
しかし人間の他の動物にない優れたところは、他者をおもんばかり、コミュニケーションを取っ
て、共同で生活環境(社会)を築き上げるところでしょう。つまり、個々の存在としての弱さ故に、
人間は言語を生み出し、文明を発展させて、現代の社会環境を生み出したのでしょう。
そのように考えると、弱さや欠点が転じて、繁栄に導いた、とも言えます。逆説はまた真なりと
言えるのでしょう。
2025年6月12日木曜日
2025年6月度「龍池町つくり委員会」開催
6月10日に、「龍池町つくり委員会」が開催されました。
まず、8月30日に開催される、龍池学区恒例の「夏まつり」に、鷹山のお囃子体験のプログラムを組み入れ
られないかということを、検討しました。これは将来的に、鷹山の日和神楽を当学区北側に誘致するために、
鷹山保存会と学区の関係を維持することが必要であると考えるからで、当初は、祇園祭までの6月か7月に
単独で実施する予定であったところ、6月7月は先方の予定が立て込んでいて、それでは、「夏まつり」の
一つのプログラムとして、組み入れてはどうかということになった次第です。
事前に私が、連合会長の許可と、町つくり委員でもある鷹山関係者の森さんに可能であるかの打診をして、
今回の委員会にその案を持ち込みました。まず、出席されているマンガミュージアムの事務局長勝島さんに、
タイムスケジュールの面で、プログラムへの組み入れが可能であるかを確認し、十分可能であるということ
なので、他のメンバーの意見を聞いて、正式に鷹山保存会に出演を依頼することになりました。
その場合、マンガミュージアムが作成されるポスターと各町会回覧用のチラシに、このプログラムの告知を
記載して頂くことと、新たに町つくり委員会町でも、鷹山お囃子体験メニューに特化したチラシを制作して、
8月頃に回覧することになりました。
その他の報告事項としては、京都外国語大学南先生より、「南町つくりゼミ」の役行者山での祇園祭の手伝
いの予定が報告され、また同ゼミでは、メンバーによる龍池学区の町歩きを実施するということです。
マンガミュージアムからは、7月27日に地域の子供たちにマンガの描き方を漫画家の先生が指導する、「マン
ガ道場」の開催、8月23日には、同ミュージアムの荒俣館長による、「大人ゆうれい教室」が開催される
ことが、報告されました。
2025年6月5日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3333を読んで
2025年2月4日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3333では
『新明解故事ことわざ辞典』の記載から、次のことわざが取り上げられています。
耳は大なるべく口は小なるべし
このことわざは、「情報は広範囲から得るのがよいが、それを人に語るのは控えめにしたほうがいい」
という意味のようです。
確かに、情報は色々な所から得て信憑性を高め、正確を記するのが良く、それでいて、それを自ら
発信するときには、その情報の他への影響や、発信することの損得も考慮に入れて、慎重を記すのが
得策でしょう。それが思慮深いということだと思われます。
他にも「耳の楽しむ時は慎むべし」(甘言に十分注意すること)「耳に釘」(相手に警句を発する)
など、耳にまつわることわざは多いようです。このように聞くという行為は、見ると並んで、社会や
周囲の状況を把握し判断するために、大変重要な行為であると思われます。
しかし現代は、グローバル化、情報社会化の弊害として、目と耳に情報が過剰に入ってきて、返って
判断を誤らせるという事象も生まれてきているように思われます。この場合は、入ってきた情報を
正確に取捨選択する知性、冷静さの必要性が、更に増してきているように思われます。
2025年5月29日木曜日
「マルテの手記」を読んで
高名な詩人による、手記と呼ぶには断片的で、とりとめの無いような作品です。
訳者前書きにも記されているように、リルケの分身でもあるような人物マルテの、幼時の回想や文化の
中心パリへ単身出てきて感じたこと、他方歴史的人物の最後について、あるいは、物、人、神、愛など
についての哲学的思考など、脈絡のない書き付けのような断章が並んでいます。
前書きのアドバイスもあったので、全体を統一した物語と捉える考え方からは離れて、それぞれの断章
を、主人公の時々の思考に寄り添う気持ちで読むように努めました。
そのように読み進める課程で、私の一番印象に残ったのは、マルテの幼時から思春期にかけての回想的
部分です。作中のマルテは、デンマーク王室の侍従長を祖父に持つ貴族の家系に生まれ、成長するまで
は貴族的な生活を送りますが、既に彼の家系の没落は進行していて、彼自身の生活にも影を落として
います。
そのような状況における在りし日の優雅な生活の回想や、親族、縁の人々の立ち居振る舞い、とりわけ
祖父の威厳ある態度は、かつての華やかな貴族文化を想起させます。
またマルテが幼い頃に亡くなった美しい母への複雑な想いも含む追慕、そして恐らく、母の面影を宿し
ていた故に、マルテの幼い恋の対象となったであろう、母の一番下の妹アベローネへの思慕。因みに
彼女は、マルテの詩心のミューズであったと推察されます。
これに関連して少し話はそれますが、彼がアベローネにパリのクリュニー美術館の有名な「貴婦人と
一角獣」のタピストリーの美について語りかける断章では、私自身が藤田嗣治の生涯を描いたある映画
で、パリに着いて同美術館に赴いた藤田の目を通すという形で、この美しいタピストリーを詳細に観て
いたので、リルケの詩的な描写がその時の感慨とシンクロして、ヨーロッパ美術の美の精華を追体験
する思いがしました。
本作の後に添えられている、精神科医である斉藤環による病理学的視点に立った解説では、リルケは
「強迫性障害」や「統合失調症」的な資質を有していたと言います。特に、マルテと同様に経済的展望
なしに単身パリに滞在した時には、精神的危機を抱えていた可能性があると言います。
この「マルテの手記」は、その克服のために描かれた作品であり、詩人リルケが大成するために、不可
欠の作品だったのでしょう。
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