店主、日々のことども
2024年11月20日水曜日
「鷲田清一折々のことば」3136を読んで
2024年7月5日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3136では
米国の政治学者ニコラス・クセノスの『稀少性と欲望の近代』から、次の言葉が取り上げられています。
私たちは、豊かさの中から稀少性に満ち
た社会を創り出してきたのである。
これだけでは、少し意味が分かりにくいですが、満ち足りた豊かな社会で、新たな需要を生み出すため
には、稀少性という購買力を喚起する原動力が必要であると、いうことのようです。
なるほど経済活動においては、本当に食料、物が欠乏している時には、欲望は自然に喚起されて、黙っ
ていてもそれらのものは消費されて行きます。例えばよく言われる例えで、喉の渇いた人には、一杯の
水が何より貴重であり、空腹を抱える人には、一片のパンが喉から手が出るくらいに求められるでしょ
う。
ところが人々の衣食住が一定程度満たされると、何も働きかけなければ、新たに物を求める衝動は、
簡単には喚起されないでしょう。そこで人々に商品を求める欲望を生み出すために、稀少性という魔法
が必要になります。
つまり、今買わなければ、これから二度と手に入らないとか、今のうちに買っておけば、価値が上がっ
て、後には高く売れるとかの、その品物にまつわる但し書きです。
私たちの資本主義社会は、このようにして延々と需要を喚起して来たのです。では私たちは、このよう
な誘惑にどのように対処すれば良いのか?
手を替え品を替えて、宣伝される情報に振り回されていては、お金がいくらあっても足りないし、後から
むなしさに囚われるかも知れません。そのような社会の仕組みを知って、喧噪から少し距離を置き、適度
に資本主義社会の利便性や、ほどほどに欲望の充足を享受しながら、堅実な生活を送ることが必要なので
はないでしょうか?
2024年11月14日木曜日
2024年11月度「龍池町つくり委員会」開催
11月12日に、11月度の「龍池町つくり委員会」が開催されました。
懸案事項の、鷹山日和神楽の龍池学区誘致については、町つくり委員で鷹山保存会でも主要な立場に
ある森さんに、時間を掛けて誘致の働きかけをして頂くということで、委員会としてはしばらくその
成り行きを見守るということになりました。
南先生の京都外大グループによる、大原学舎での星空学級の催事は、まだ準備が整わないということ
で、年明けにでも改めて日にちを設定して開催する、ということになりました。
また、大原での京都外大グループが関わられる行事としては、11月17日に地域の小学生が参加する
芋掘りが行われ、また日にちが前後しますが、16日には、各地の小規模小学校の関係者が参集する
サミットが開催されるということです。
委員会に出席された、京都国際マンガミュージアム事務局の方の報告によると、防災における地域の
避難所としてのミュージアム(旧龍池小学校)グラウンドに、設置予定のマンホールトイレは、工事
が大幅に遅れているようで、それに合わせて開催する予定の、本年度の学区民総合防災訓練の予定日
12月1日には到底間に合わないということで、訓練の日にちを改めて遅らせるか、日時が差し迫って
いるので、早急に検討することになりました。
最後に中谷委員長より、ミュージアムの敷地が西側の両替町通り沿いから、東側の烏丸通沿いまで、
約1m30cm傾斜している(西側の方が高い)ので、住民が多く暮らす両替町側から災害時に敷地に入る
時に車椅子などの高齢者には困難が伴う(現在は、階段を昇らなければミュージアムに入れない)と
いう指摘があり、従来の災害時の避難計画では、烏丸通り側から入ることになっていますが、この
課題も、改めて検討することになりました。
2024年11月8日金曜日
「鷲田清一折々のことば」3179を読んで
2024年8月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3179では
兼好法師の『徒然草』第一三七段から、次の言葉が取り上げられています。
すべて、月、花をば、さのみ目にて見る
ものかは。
「月や花を見るのは目でとは限らない」ということのようです。
その場に行って、月や花を直接に見て、風情を楽しむ。勿論それが花見、月見の基本ですが、果たして
それだけが月や花を味わうことでしょうか?兼好法師はそのように疑問を投げかけています。
本当に十分に花や月を愛でるには、例えば古今の月や花を読んだ歌を知り、書画を観て、それらを巡る
素養を身につけてから鑑賞する方が、ずっと味わいが増しますし、奥行きが広がります。
また、ただ月や花そのものを見るだけではなく、その場の風情、雰囲気を含めて眺め、更には、月見、
花見の宴を終始距離を置いて「よそながら見る」ことを、月や花を見ることの極意と捉えているよう
です。
現代は、何事も効率と合理性を重視して、例えば現場に行き、月、花を美しく切り取った決定的なショ
ットの画像をものして、SNSにアップし、たくさん「いいね」をもらえたら、それで花見、月見も完結
というような風潮がありますが、兼好法師の主張は、私たちにものを愛でることの本質を、示してくれ
るようにも感じられます。
2024年10月31日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3190を読んで
2024年8月30日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3190では
仏文学者生島遼一の『鴨涯日日』から、友人の中国文学者吉川幸次郎の次の言葉が取り上げられ
ています。
「無用の事を為さずんば何をもって有限
の生を遣らん」
吉川から著書が届き、礼状を出したら上記の言葉を含む返事が来た、ということのようです。
この場合鷲田が記すように、「無用」は謙遜であっても、この心構えは敬服に値すると思います。
私たちは、日々の雑用、雑念にかまけて、ついつい人生が有限であることを忘れがちです。その
結果、瞬時の感情や短慮に動かされて、いたずらに右往左往してしまうのではないでしょうか?
ここに言う「無用」は本質的に無駄なことではなくて、熟慮の上に損得を越えて為すべきことで
しょう。それは、人生が限られたものであるということを十分に自覚した上に、目先の利益に
囚われず為すべきことであると考えます。
そのような心構えで日々を過ごせれば、きっと自分の人生の最後を迎えたときに、充実した生で
あったと、思い返せるに違いありません。
2024年10月23日水曜日
村上春樹著「風の歌を聴け」を読んで
前から気になっていた、村上春樹のデビュー作を読みました。ほとんど予備知識を仕込まずに読んでので、
幸いにもこの小説自体については、発表当時に近い感覚で読むことが出来たのではないでしょうか?
例えば、冒頭から登場する、主人公「僕」が敬愛する作家デレク・ハートフィールドですが、まんまと
実在の小説家と思い込んでこの小説を読み始め、末尾に添えられた”ハートフィールド再び・・・(あと
がきにかえて)”で、その思いを補強されて読了しました。
とにかく、そのような気分で読み進めると、中盤までは自意識ばかり強い、生意気な若者の、それでいて
青春期にしては消極的な生き方に、じれったさと、不快なものを感じました。
しかし終盤にさしかかり、これも著者の分身と思しい友人「鼠」が、自身が書いた小説について語る場面。
正にこの小説の題名もここから取られているのですが、小説家村上春樹の自ら能動的に働きかけるのでは
なく、開いた胸襟に飛び込んで来るあらゆるものを包摂して、物語を紡いで行く、小説作法の原点が語られ
ているようで、感銘を受けました。やはりこの小説は著者にとっても、それ以降の小説創作の指標となった
のではないでしょうか?
それ以外で村上の小説らしいと感じたところは、本作が「僕」の帰省先の阪神間の町を舞台にしているらし
いのですが、山を背景にした港町というその地理的条件が語られるだけで、地域特有の雰囲気や匂いが、
全然描かれていないということです。つまり逆にこの小説の舞台が、湘南の海岸であっても、アメリカの
ウエストコーストであっても、一向に差し支えないと思われます。それだけこの物語が、内面の世界を取り
扱っているということでしょう。
さて、読後デレク・ハートフィールドが虚構の人物であることを初めて知って、私は著者がこの作品を構築
する前提として、実在感のある架空の人物を生み出した理由を考えました。物語自体が一瞬の夢であること
を示したかったのか?あるいは読者を欺くことによって、小説というものが虚構の企みであることを強調し
たかったのか?
いずれにしても、村上春樹の小説作法には、ブラックボックスのような全ての事物を呑み込む空間を設定し
て、その中から物語が立ち現れるような、技巧が凝らされているように思われます。恐らくこの設定も、
その手段の一つであったのではないでしょうか?
2024年10月17日木曜日
京都高島屋グランドホール「第71回日本伝統工芸展京都展」を観て
毎年、日本伝統工芸展は楽しみに拝見していますが、今回特に感じるところがあったので、このブログで
取り上げてみました。いつものように、私が興味を持っている染織部門につて、感想を書いてみます。
今回特に感じたのは、全体のイメージとして、ほとんどの作品が極力無駄をそぎ落とした洗練やモダンさ、
つまり引き算的な美学に傾いている傾向があると、思われたことです。
勿論、織物の作品は、制作上の制約によって、幾何学的な模様表現になり勝ちであるのは、致し方ない
ことです。それでも配色や、手織り的な味を強調するような、素朴な表現も可能だとは思われます。
また友禅染の作品では、細かく鋭い糸目の線が強調されて、技巧としての巧みさや、労力をふんだんに
掛けていることは十分に伝わってきますが、作品の柔らかさ、豊穣さという点では、何か物足りなく
感じられました。
長引く不況、生活習慣の変化によって、伝統工芸品に対する一般の人々の見る目が厳しくなっている現在、
そのような環境での物作りは、大変な困難を伴うものだと、私のような和装業界の片隅で活動するものに
も、ひしひしと感じられます。
でもそんな時代だからこそ、手工芸品を制作する喜びや、手仕事ならではの素朴さ、些事に囚われない
おおらかさが、それを手にして、愛用する人に、十分に伝わる作品があってもいいのではないでしょうか?
生意気にも、そんなことを感じたので、記してみました。
2024年10月10日木曜日
2024年10月度「龍池町つくり委員会」開催
10月8日に、10月度の「町つくり委員会」が開催されました。
本日の議題はまず、鷹山日和神楽の龍池学区誘致について。本日の議題として取り上げるに先立ち、まず町作り
委員でもあり、鷹山囃子方でも重要な役を担われる森さんに、改めての誘致の可能性についてお尋ねしたところ、
前回誘致の可否を龍池自治連合会理事会で議題として取り上げたときに、誘致に慎重な姿勢を示された、学区内
の山鉾町の役員の方の賛同があれば可能であろうという言質を得たので、私がその山鉾町である役行者山町の
世話役の方にお目にかかって意見を聞いたところ、前回も誘致反対が本意では無く、環境が整えば話を進めれば
いいのではないかというお返事だったので、当委員会で改めて取り上げることにした次第です。
そのような経緯から、今日の委員会には森さんにも出席頂き、経緯を説明の上、改めて誘致のお願いをしました。
それに先立ち、中谷委員長より、鷹山の日和神楽が当学区を通行することは、学区の活性化に寄与するに違い
ないが、そのような決定をすることが鷹山側にとっても有益であるようにしなければならない。その点も考慮して
慎重に話を進めるべきだ、という意見が出て、それに従いこの企画を成功させるためにじっくりと取り組むことに
なりました。
具体的には、当学区の夏祭りの催しとして、鷹山の囃子方に参加してもらうとか、鷹山のメンバーを招いて、大原
郊外学舎でバーベキューパーティーを催すなどの行事を企画して、親睦を深める機会を作るということなどが例と
して挙げられます。また学区内でも、各町会長も集まられる拡大理事会で、日和神楽誘致の意義を分かりやすく
説明して、学区の総意としての理解を深めることも必要です。これから当委員会で、これらを円滑に進める方策に
ついて検討していきたいと考えます。
南先生の京都外大グループの大原学舎での催事企画については、まだ具体的な日程は決まっていませんが、近い
タイミングで、「青空学級」という催しを開催するため、準備を進めていく。そのために案内の学区内全戸配布や、
告知ポスターの掲示のために、町つくり委員の協力をお願いしたいという、お話がありました。できる限り協力を
したいと思います。
マンガミュージアム事務局からは、北館の雨漏り対策として、10月15日から18日まで、ミュージアムを休館
して保修作業を行うという報告がありました。
登録:
投稿 (Atom)