2025年4月9日水曜日
2025年4月度「龍池町つくり委員会」
4月8日に「龍池町つくり委員会」が開催されました。
まず、自治連合会に提出するために私が作成した、令和6年度の「町つくり委員会」の活動報告書、決算書、
及び令和7年度の活動計画書について、委員会で審議しました。概ねのところは了承を得ましたが、これら
の書類の提出に合わせて、連合会役員並びに、各種団体長に当委員会への勧誘のチラシを配ることについて
は、その対象を各町会長にも広げて参加を呼びかけることになり、新たに各町会長向けのチラシも作ること
になりました。
会議内容に入り、南先生から自主ゼミグループの今年度の取り組みについて説明があり、今会議当日出席
いただいたゼミグループ10名のメンバーを、大原担当、祇園祭担当、役行者山担当と3つのグループに分
けて、企画を進めていくということで、それぞれのリーダーから経過報告等の発表がありました。
大原グループは、学区の催事で提供するシソ、ジャガイモ栽培の他に、大原郊外学舎に藤棚を作る計画の
進捗状況、さらには南先生より、渡り蝶であるアサギマダラが大原でも見られることから、学舎の敷地の
一部に、この蝶が好むフジバカマを植えて、蝶の飛翔が学舎でも観られるようにする計画についての提案も
ありました。更には、大原の農産物をマンガミュージアムで産直販売してもらう計画(マルシェ)について
も、大原学区の責任者と話し合って頂いたようで、具体化に向けて話を進めることになりました。
祇園祭の催事については、まだ実現に向けての計画段階で、役行者山の手伝いについては、準備段階として、
毛懸装品の修復の見学などを行っているということでした。それぞれの企画の具体化、統合に向けて、委員会
でもバックアップをして行きたいと考えています。
2025年4月4日金曜日
「鷲田清一折々のことば」3279を読んで
2024年11月30日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3279では
俳優沢村貞子の随筆集『わたしの台所』から、沢村の母の次の言葉が取り上げられています。
「あんまりこぎたない格好をしている
と、はたの人に気の毒だからね」
この言葉は、身だしなみという行為が、自分をやつして見栄え良く見せるというためではなく、
他人に不快と思わせないためになされるべきものであるということを、語っています。
確かに私の周囲でも、以前には庶民の間に、このような感覚があったと思います。だからいた
ずらに、お洒落な服を着て、着飾るのではなく、体を清潔に保って、高価では無くても、手入
れの行き届いた服装を心がけるというような・・・。
ただし昔は、職業や生活レベルによって、ある程度服装の規範が定まっていたようなところが
あって、この階層の人はこれくらいの素材で、そのような縫製の衣服を着用する、という慣習
があったように思い出されます。
だからある意味現代のように、必ずしも服装でその人の職業や、生活水準が判断出来ないという
ことも、社会生活における公正さという点では、好ましいのかも知れません。
しかし私は、例え日常的な装いであっても、周りの人を不快にさせない心配りというものは、
必要であると考えます。自分の都合だけではなく、周囲の人々との調和も考える。これは、公共
性を有することにもつながるのではないでしょうか。
2025年3月27日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3271を読んで
2024年11月22日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3271では
詩人、批評家大岡信の『肉眼の思想』から、次の言葉が取り上げられています。
専門家とアマチュアの区別は、作品の質
の良し悪しとは別個である。
この詩人は、「先人たちの仕事の累積の中に自己自身を自覚的に位置づける意思と実行力を
持つ者」が専門家であると、考えていたようです。しかも「歴史を踏まえているというにとど
まらず、つねにそれらに厳しく対峙するような緊張の中にいるということだと」
これはもっともな言だと思います。専門家であるためには、自分の技量、知識量の高さは言う
までもなく、しかもこれらは、その分野の伝統に培われたものを熟知、体感して、その前提の
上に築き上げられ、蓄積された種類のものでなければならないでしょう。
昨今は、今成というか、生半可に技術や知識を習得して、それで専門家然と振る舞う人も見受
けられますが、結局のところ、蓄積されたものの裏付けや、それを基盤とする矜持や覚悟が
なければ、直ぐにメッキは剥がれるものだと思います。
私も自分の商いという、限られた小さな分野においては、少なくとも、専門家的でありたいと
考えています。
2025年3月18日火曜日
内田百閒著「第一安房列車」を読んで
鉄道紀行文学の秀作であり、今も読み継がれる名作、内田百閒の第一安房列車を読みました。とにかく、
旅の浮き立った気分が味わえて、楽しかったです。
その楽しさの基調には、戦後復興期で多くの人々が多忙に働く中で、「なんにも用事がないけれど
汽車に乗って大阪に行って来ようと思う。」百閒先生の気楽さがあると思います。この作品を読んだ
当時の人々は、どれほど先生の気楽さに羨望を感じたか分かりません。
しかし、この常識に囚われない自由さは、信念に基づく筋金入りです。先生は、名の知れた小説家でし
たが、決して特別の経済的ゆとりがあった訳ではなかったようです。それでも、借金をしてまで等級の
高い車両に乗って、優雅な旅を楽しみます。また、時間には特に、余裕を持たせることを心がけます。
朝の早い列車には乗りません。もし以降のスケジュールに都合のいい列車が朝に東京を出発するなら、他
の遅い時刻に出発する列車にあえて乗車して途中まで行って、一泊し、そこから翌日の遅い時刻に、
東京発の前述の同じダイヤの列車に乗るようにします。因みに、旅先の旅館でも、朝食は取らず朝寝し
て、夜の酒席に備えます。勿論列車内でも食堂車があれば、酒をたしなむことを忘れません。
またせかされて列車の乗り換えはせず、そのために2時間待ちも厭いません。このように徹底的に、時間
に余裕のある旅を貫きます。更には、先生の社会の常識的な価値観を超越した批評精神が、独特のユー
モアを伴って、記述に味を添えます。旅先で出会った人々の人間観察、権威には媚びず、歯に衣を着せ
ず、名の知られた観光地には行かないで、何気ない風光に美を見出します。そして、鉄道に乗ることが
ただ楽しいのです。
しかしここで言い忘れてはいけないのは、百閒先生自身がある意味、特権階級であるということです。
彼の気ままで、我がままな旅を支えるのは、弟子で同行者で、鉄道関係者のヒマラヤ山系こと平山氏
です。二人の取り合わせには、先生の毒気を中和する役割があり、その旅先でのやり取りには、漫才の
掛け合いにも似た、おかしみがあると感じられました。
最後になりましたが、この名作紀行文学を現代の視点で読むとき、戦後直ぐの頃の鉄道事情が、興味深く
感じられます。またこの部分が、鉄道好きにはたまらないと思います。
2025年3月12日水曜日
2025年3月度「龍池町つくり委員会」開催
2025年3月11日に、3月度の「町つくり委員会」が開催されました。
今回から、中谷委員長が定例の委員会へ出席されないことになって、副委員長の私三浦が、単独で委員会の
進行を担う事になりました。何分不慣れなために、不行き届きの点もあるかも知れないが、各委員のご協力
のもと、今までよりもより開かれた会の運営を行っていきたいと考え、その旨冒頭に説明し、了解を得まし
た。
最初に澤野委員より、中谷委員長から託された、「歌声サロン」の担当者会議の議事録が配布され、それに
ついての説明がありました。これはこの行事を町つくり委員会が後援することについて、寺井委員より疑義
の申し立てがあり、その釈明のため提示されたという経緯があります。
この行事への町つくり委員会の関わりの根本的な問題点としては、龍池学区の参加者が少ないということで
あり、また中谷委員長が今まで後押しされてきたこともあって、協議の結果今しばらく、当学区民の参加を
促す告知ポスター、回覧チラシの各町への配布を続けながら、成り行きを見ようと言うことに、委員の意見
が一致しました。
次に「鷹山日和神楽」の誘致の方策について検討が行われ、今年度の誘致は無理としても、翌年度以降の
可能性を残す為にも、6月くらいにマンガミュージアムに鷹山囃子方をお呼びして、子供を含む学区民対象
の演奏、体験のワークショップが開けないか、という話になり、もし開くとするならば、鷹山だけではなく、
学区内にある他の山、役行者山、鈴鹿山も含めて、当学区における祇園祭を巡る催事という形で、話を進め
ようということに話がまとまり、南先生の自主ゼミグループにもご依頼して、企画を立案していくことに
なりました。
次に大原学舎の活用については、南先生のグループメンバーが、当地で学区民に提供するためのジャガイモ、
シソの栽培の活動を続けておられますが、更に寺井委員より、龍池と大原の交流をより深めるために、大原
で栽培された農産物を当学区に販売に来てもらうという企画は出来ないか、という提案があり、マンガミュ
ージアムを会場として、そのようなことが実現可能かどうか、南先生にもご協力頂いて、更に検討を重ねる
ことになりました。
今回の「委員会」は、建設的な提案も多く出て、私にとっても、初回としては安堵できる結果となりました。
2025年3月6日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3255を読んで
2024年11月5日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3255では
劇作家・評論家福田恆存の随想「物を惜しむ心」(1964年)から、次の言葉が取り上げられています。
物を破壊する事によって、その人は物の
中に籠もっている人の心を殺してしまった
のです。
日本人は古来、使い込んだ物には魂が宿ると考えて来ました。例えば、付喪神を信じるという風習も
あります。
更には、ある人が日常大切に使っていた物には、その人の想いが宿るという考え方も、生まれたので
しょう。
だから上記のことばの言うように、物を壊す事は、それを使っていた人の心を壊すことにつながるの
でしょう。ちょっとこの場の例として適切かどうかは分かりませんが、葬式で霊柩車が発進する時に、
故人の日常使っていた茶碗を割るのは、故人のこの世への想いを断つ、ということでしょうか?
さて、物を大切にする心は、他者への慈しみや、感謝、礼節にもつながると、私は考えます。特に
その物自体が、手工芸品など丹精を込めて作られた物であるなら、その物を作った人に想いを馳せ
ながら大切に使うことは、作り手と使う人の心の交流を生み出すと思うのです。
日常使用する品の内の数点でも、私はこのような愛用すべき物を見出し、大切にしたいと、心がけて
います。
2025年3月1日土曜日
ソロー著「ウォールデン 森の生活」を読んで
アメリカの近代人による、アウトドアライフの思想の原点と言って良い作品です。かねてより難解という風評
があって、読みあぐねていましたが、思い切って読むことにしました。
まず感じたのは、確固たる信念に基づく書であるということです。というのは、本書が著された時代アメリカ
では、プロテスタンティズムが資本主義と強く結びついて、勤勉な経済活動が国民の義務と強固に意識されて
いた中で、ハーバード大学卒業という、当時の選ばれた知的エリートであるソローが、森の中で生産性のない
生活を営むという行為が、背徳的であると見なされたことは想像に難くなく、余程の決意がなければ、この
ような生活を決行出来なかったと思われるからです。
事実一部の友人を除いて大多数の周囲の人々が、彼に好奇と非難がましい目を向けているように感じられます。
しかし彼には、このような自然に融け込んだ生活こそが、人間本来の暮らしであるという堅固な信念があって、
この生活から得られる満足と喜びを、独特の詩的な文体で書き綴ったのです。
その文章は、自然現象や樹木、草花、野生の小動物にたいする愛に溢れ、そのような描写の部分は、読むだけ
で幸福な気分になります。しかもただ単なる詳細な情景や観察の描写ではなくて、科学的知識や洞察に裏打ち
された記述なので、その表現には的確さがあり、読者に対して強い説得力を持ちます。このような特徴が、
以降のアウトドアライフの思想的原点となり得た所以でしょう。
また私が本書に好感を持ったのは、ソローが猟師や木こり、そしてアメリカインディアンなど、無学で社会的
地位が低く、当時上流階級の人々から差別的な視線を向けられていた人たちの中に、野生の生活力という美点
を見出していたことであり、彼らの有するこの能力を敬愛していたことです。そこには、ソローの本質を見抜
く確かな目が感じられます。
本書が著されてから約170年の年月が過ぎ去り、今日の視点から改めて見直すと、彼が訴えたことは、正に現代
社会の抱える切実な問題として、私たちの前に迫って来ます。その意味でも、長い年月が経過しても、決して
色あせない希有の思想書と言えるでしょう。
2025年2月19日水曜日
「鷲田清一折々のことば」3106を読んで
2024年6月4日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3106では
この年にノーベル文学賞を受賞することになる、韓国の作家ハン・ガンへの、朝日新聞(5月28日朝刊)の
インタビュー「暴力に満ちた世界 光は」から、次の言葉が取り上げられています。
ぎりぎりの、か細い希望の方が本物だと
感じる。
ハン・ガンは、「少年が来る」で光州事件の悲惨な状況を、それでも詩情を失うことなく描いています。
私はこの言葉を読んで、その描写方法を思い出しました。
事件が生々しく、陰惨であればあるほど、その現実を冷徹に眺めながらも、それでも未来への一縷の希望を
失わない。それだからこそ、美しい言葉を紡ぐことが出来るのだと感じます。
残酷であればあるほど、その事実を乱暴に叫ぶように描くのではなく、それを一旦深い悲しみと共に心に
受け止めて、なおやむことの無い思いを振り絞るように、それでいて切々と美しい文章で伝える。
その文体が、彼女の切ない希望を、読者に送り届けているのではないでしょうか?この時代に読むげき作家
だと思います。
2025年2月13日木曜日
東浩紀著「訂正する力」を読んで
近頃の日本は、何かと息苦しさを感じさせます。まず、長年の経済の停滞による国際競争力の低下です。今まで
は漠然と感じられていただけでしたが、ここに来て、対外金利差による円安が顕著になって、他の国々との物価
の格差から外国人観光客が急増し、物価高などの要因によって、自分たちの日々の経済活動が思うに任せない中
で、その様子を見ているだけで複雑な気分になります。
また、電話やメール、SNS等による詐欺行為が横行して、人間不信を増幅しているように感じられます。更には、
SNSの炎上現象や、文春砲に代表される、著名人の不道徳の過度の告発は、人々の社会生活を萎縮させているよう
に感じられます。他にも、少子高齢化、天災の多発や政治不信など、不安をかき立てる要因は、枚挙に暇があり
ません。
このような現状にあって、東浩紀の提唱する「訂正する力」は、確かに切れ味鋭く、説得力のある一つの解決法
であるように感じられます。このことこそが、本書が社会にインパクトを持って迎えられた理由でしょう。日本
人には元々著者が言うように、訂正を良しとしないような一本気な気質があるのでしょう。その性格は長所でも
あり短所でもあります。
その資質は、第二次大戦の敗戦後は、驚異的な経済復興を遂げる原動力ともなりましたが、絶頂期からバブル
崩壊に伴って、一定水準で達成された経済的な豊かさの中で、今度は危機感に目をつむり、現状を肯定して、
対策を先延ばしにするような内向きな思考に導いたに違いありません。
政治的には、敗戦後に制定された日本国憲法は、作成過程に果たして自主的なものであったかという異論はあって
も、その要の平和主義は、画期的な理念に基づくものであったでしょう。しかし、今日の国際環境の目まぐるしい
変化は、否応なしにその更新の必要性を示しています。
あるいは、資本主義の高度化、IT化による、スピードと効率の重要性の増加は、益々人々に無駄の排除や、即断
即決を求めますが、そのような時にこそ、一歩退いた視点で冷静な判断を下す必要性も、増しているのでしょう。
日本人がいたずらに劣等感にさいなまれ、悲観主義に陥るのではなく、もう一度自信を取り戻し、前に進むため
にも、本書の「訂正する力」は、思想的カンフル剤となり得ると、私は感じました。
2025年2月6日木曜日
「鷲田清一折々のことば」3096を読んで
2024年5月25日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3096では
彫刻家・批評家小田原のどかの展覧会《ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?》
の図録でのインタビューから、次の言葉が取り上げられています。
「歴史のもしも」を考えることが「抵
抗」になりうる
この展覧会を観ていないし、図録も読んでいないので、私の憶測の域を出ないのですが、「ある種の作品
にのみ不変の価値を認める美術史の制度は、政治的な負荷のかかった規範とその解釈の歴史であった」と
小田原も語っているようなので、現在定着している美術史を批判的に捉え直すことの必要性を、彼女は
訴えているようです。
確かに現在流通している美術史は、蓄積されてきたものであるにしても、ある作品の歴史的な位置づけや、
評価は、これからも更新される可能性があるものですし、それで確定したものということはないでしょう。
例を挙げれば、印象派が出てきた時には、新古典派の絵画が主流であった画壇や批評家たちによって、
散々けなされたようですし、その中で徐々に受け入れられて、今日の評価を得ている訳です。
またナチスは、政権を担当していた時、伝統的な絵画表現を評価し、前衛的な表現手法の画家やその作品
を弾圧しました。それ故、歴史のもしもは、新たな可能性を見出すことにもなるのでしょう。
その意味では、埋もれた画家の発掘、再評価の試みなどは、現在の価値観に抵抗を示す、刺激的な試みで
あるのかも知れません。そのような画家の作品に出会った時の私の喜びは、評価の定まった作品に接する
時の安心感に比して、心をざわつかせるものであるに違いありません。
2025年1月27日月曜日
五百旗頭真著「首相たちの新日本」を読んで
先般亡くなった政治学者で歴史家の著者による、第二次世界大戦の敗戦から占領統治の終わりまで、我が国の
五人の首相による、六代の内閣の業績を丹念に辿る、政治史の書です。
今日の日本では、バブル崩壊後の不況の後遺症をなお引きずりながら、新型コロナによるパンデミック後の
激しい物価高に見舞われる中で、自民党の圧倒的過半数を占める内閣は、政治的混迷を深めています。
国土が焦土と化した敗戦から我が国が立ち直り、後には高度経済成長という輝かしい復興を遂げるに至る過程
で、政治的に如何なる努力が行われたかということを知ることは、今日の政治状況を考えても、何らかの意味
があるのではないかと思い、本書を手に取りました。
まず戦後生まれの私には、敗戦直後の混乱は想像もつきませんが、敗戦二日後に首相に就任した東久邇宮稔彦
は、いつ敗戦を認めない軍人のテロによって命を落とすとも限らない覚悟で、この重責を引き受けたといいま
す。その意味でも、彼が皇族で軍人であるという経歴は、反対派を抑える欠かすことの出来ない要件であった
でしょいう。この描写を読んで私は、敗戦直後の息詰まる緊張感をひしひしと感じると共に、軍国主義の狂信
というこの国をむしばんでいた病理を実感しました。
東久邇内閣は、首相の政治的経験不足もあって直に崩壊しましたが、敗戦の混乱を治めたところに、大きな
価値があると感じられました。
次の幣原内閣は、戦前の良心的外交官であった彼が、高齢と病身を押して首相に就き、GHQにも評価されて、
経済的窮乏の中で援助を引き出すことが出来ました。幣原首相の業績の中で興味深いのは、彼が戦前軍部の
横暴に抵抗したにも関わらず、旧憲法の部分的修正で戦後も事足りると考えていたことです。結局GHQの圧力で、
憲法改正時の当事者の内閣となったところが興味深いです。
短い第一次吉田内閣を経て、片山、芦田の中道左派内閣は、GHQ民生局の後ろ盾がありながら、首相の統率力
不足で早くに崩壊しました。我が国の現代政治における中道左派の立ち位置が、この頃から変わらないことには
野党勢力の不甲斐なさを感じます。
そして満を持して登場したのが、保守党の第二次吉田内閣です。吉田首相は堂々とGHQとも渡り合い、講和条約
を成立させて、占領の終了と後の経済発展の礎を築いたのです。
このように見ていくと、民主主義政治においては、健全な政権交代が発展をもたらすと感じられます。今日の
日本の政治状況は、如何なるものでしょうか? (2024年7月26日に記しました。)
2025年1月23日木曜日
2025年1月度「龍池町つくり委員会」開催
1月14日に、1月度の「龍池町つくり委員会」が開催されました。前年12月は、年末ということで
休止したので、2ヶ月ぶりの開催と言うことになります。
ところが今回は、京都外大の南先生と澤野委員がお休みされたのと、京都外大グループの大原学舎での
活動と鷹山日和神楽の誘致活動に特に進展がなかったので、学区及び自治会活動の現状の検証が中心と
なりました。
まず、マンガミュージアム事務局から、マンホールトイレの設置がほぼ完了したとの報告があり、それ
に伴って、近いうちに自主防災会役員によるこの設備の使い方の研修会を開くことの必要性が確認され
ました。
次に中谷委員長から、11月度の委員会でも提起された、災害避難時の高齢者のミュージアムへの入り
口として、両替町側からのルートの整備の必要性の話が出ました。これは、ミュージアムの立地と構造
状費用もかかり、簡単に改善出来ることではないので、引き続き検討課題ということになりました。
次に京都外大グループの出席者の方から、大原学舎の利用規則について質問があり、原則営利目的以外
ということが確認され、また利用許可は、長年担って頂いている、前町つくり委員の寺村さんに求める
ということが示されましたが、これについても中谷委員長から、現在学区に居住していない人物が全権
的このような役割を担うのは適切であるか、という問題提起がありました。
ただ寺村さんには、長年の実績があり、他の役員にも適任の人物が見当たらないので、当面はこの体制
を続けるしかないと思われます。
最後に寺井委員より、当委員会が後援している「歌声サロン」を、町つくり委員会がサポートする必要
性があるのかという問題提起があり、その背景としては、参加者の中の学区民の割合が少ないという
ことが挙げられました。この活動は確かに高齢者にとって有意義ではありますが、当委員会でポスター
掲示や、回覧用のチラシの制作などの活動をしているにも関わらず、なかなか学区民の参加者が増え
ない現状があります。学区民の参加を促進する、新たな施策が必要かも知れません。
今回の委員会の話題は、ほとんど前向きなものではなく、私自身次回以降は、もっと建設的な議題で
意見の交換が出来ればと考えています。
2025年1月17日金曜日
「鷲田清一折々のことば」3088を読んで
2024年5月17日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3088では
免疫学者・多田富雄の随筆集『独酌余滴』から、次の言葉が取り上げられています。
迷惑をかけたり、かけられたりしなが
ら、濃厚で味わい深い人間関係が作られ
てきたのだ。
鷲田の解説文にもあるように、私たちは小さいときから、親に人に迷惑を掛けない人間に
なりなさいと言われて育ちますが、人生経験で印象に残っているのは、人に迷惑を掛けた
失敗体験であることが多いように思われます。
それだけ私たちは失敗をする者であり、そのような失敗こそが、忘れがたく心に残るもの
なのでしょう。
また人に迷惑を掛けられたことも、その時は腹立たしいのですが、よほどの実害がないこ
とは、後々にはいい思い出になったり、その人の人となりを知るきっかけになったり、
するものです。
要するに、出来るだけ他人に迷惑を掛けないように心がけながら、でも往々に人は失敗す
るものだと達観して、ゆとりを持って物事に取り組み、また、他人に対しても失敗や迷惑
を掛けられたことを大目に見るような、寛容な心を持てれば、この世も生きやすいという
ことでしょう。
でも自分の失敗も、他人に迷惑を掛けられることもなかなか許せない。つくづく人間は、
業の深い生き物です。
2025年1月8日水曜日
吉本隆明著「良寛」を読んで
名利や権力を求めず、襤褸をまとい、郷里近くの荒ら屋に隠棲しながら、時に村の子供と手鞠に興じ、托鉢
三昧の生涯を送った良寛も、気鋭の思想家吉本隆明によると、ラジカルな先鋭思想の実践者の相貌が浮かび
上がることになります。
そう言われれば、それはそうでしょう。僧侶でありつつ優れた詩歌の作り手であった彼が、自らの生き方に
思想的裏付けを求めないはずがないからです。
道元に憧れ曹洞宗に入門、『正法眼蔵』を学びながら、大忍国仙という直接の師を得ます。良寛の僧侶とし
ての思想を知るには、常不軽菩薩への傾倒が重要であると、吉本は語ります。この菩薩はいつも人を軽んじ
ない菩薩で、人間は誰でも菩薩あるいは仏になれる存在だから、自分は何時でも何処でも誰にでも、礼拝す
ると言うのです。
従って、礼拝された者たちの方がかえって、馬鹿にするなと怒ったり、罵ったりしますが、そんな反応に一
切お構いなく、ただひたすら、どんあ相手に出会っても礼拝するといいます。また良寛は、人から揮毫を頼
まれると、『正法眼蔵』のどうしたら菩薩になれるかを示す、「菩提薩捶四摂法」の条を書きましたが、そ
の中でも彼は特に、「愛語」の文章を好んだといいます。
そしてこの「愛語」というのは、普段乱暴な言葉や憎む言葉を吐かないということだそうです。つまり愛す
るとか、慈悲の心を持つとか、そういう言葉だけを口にして、憎しみとか人を傷つける言葉は使いません。
彼はこの戒めを徹底して、厳しく自らを律していたといいます。
余談になりますが、私自身個人的にも若い頃、自分の言葉が人を傷つけないかいつもびくびくしていて、そ
れが元で赤面恐怖に悩まされたことがあります。従って、この良寛の気質に共感を覚えるところがありまし
た。
このような彼の僧侶としての心のあり方は、国仙師亡き後、良寛を寺の後継者争いから排除し、郷里に帰り
自覚的に托鉢を用いた、隠遁生活を送らせることになります。
しかし彼の残した詩歌には、諦観を越えた自在の境地、清貧の中に風物を味わう余裕や遊び心があり、今な
お私たちを魅了します。そこには、自身の立つ位置を低く保つことによって生まれた、アジア的な慈悲心が
あると、私は感じました。
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