2025年6月26日木曜日

高橋昌明著「京都<千年の都>の歴史」を読んで

本書を、自分の生まれた町の歴史を知りたいという単純な動機で読み始めましたが、結果として、この都市に ついてのもっと深いところまで想いが至る、読書になったと思います。 勿論、京都は長年に渡り日本の都でしたから、その歴史が一筋縄ではいかないものであることは、あらかじめ 想像出来ました。また、私自身にも、歴史的価値観を有する都市が自分の生まれ故郷であるという、出生地へ のある種の自負があることは事実です。 しかし、この都市に対して私の抱くイメージは、あくまで、自分が生まれてから今日に至る間の環境から受け た影響に色濃く支配されていて、そういう意味では、和装という市中心部の基幹産業が著しく衰退し、他方 観光都市として他の地域、観光客からの人気は高く、その結果地元民の高齢化と若年層の流出、マンション、 ホテルの林立という具合に、都市の空洞化が進み、かつての輝きを失った過去の栄光にすがる都市という風に 映ります。 だから、もしかしたら私は、この本を読んで、この都市の過去の繁栄を追体験することによって、少し自尊心 を満足させたいと考えたのかも知れません。しかし実際に本書を読んでみると、この都市の来し方は、それほ ど生半可なものではなく、むしろ歴史に翻弄された波瀾万丈のものであったことが分かります。 まず最初の平安京は、今の千本通り辺りを中心軸として、天皇が居住し、政務を行う平安京(大内裏)を、 現在の京都御苑よりかなり西方に設け、そこから鴨川以東、西京極以西の東西に広がっていました。これは あくまで計画的に建設された都市で、以降市街地が東部中心に発展したり、頻発した大火、地震、戦乱、為政 者の意向に影響されて、有機的に形を変えながら発展してゆきます。 住人の生活は、衛生面では室町時代頃まで、街路の側溝に糞尿を垂れ流し、その結果伝染病がしばしば猛威を 振るい、自然災害、人災と共に、人々を苦しめたそうです。また治安面では、庶民の暮らしは為政者、権力者 の動向に左右され、応仁の乱や戦国時代の政治権力の空白時には、市街地自体が二分、縮小を余儀なくされた と言います。 このような厳しい条件の中で、住民は公家、宗教界、武士の勢力の干渉と折り合いを付けながら、町単位の 自治を育んでいったそうです。 この本を読んで、現在の町人気質の成り立ちを知ると共に、一隅の一住民としても、町を再生するための気概 を、奮い立たせなければならないと感じました。

2025年6月18日水曜日

「鷲田清一折々のことば」3342を読んで

2025年2月18日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3342では 小説家川崎秋子による論考「人間と動物を分かつ壁の向こう側」(「アンジャリ」第44号)から、 次の言葉が取り上げられています。    人間の弱さと傲岸さは、けれどひとつの    武器でもある。 人間は集団で社会生活を行い、特に現代人は、色々な社会システムの庇護の許にあって、もし 単独で野生の世界に放り込まれたら、驚くほど無力な存在でしょう。 それに引き換え野生動物は、限られた環境に特化しているとはいえ、単独あるいは群れという 集団を構成していても、自らの生の目的を遂行するために、懸命果敢に個としての生き様を貫い ているように感じられます。 客観的に見たら、後ろ向きに思い悩んだり、煩悩に囚われたり、あるいは優柔不断でもある人間 は、随分弱く、欠点の多い存在であるように思われます。 しかし人間の他の動物にない優れたところは、他者をおもんばかり、コミュニケーションを取っ て、共同で生活環境(社会)を築き上げるところでしょう。つまり、個々の存在としての弱さ故に、 人間は言語を生み出し、文明を発展させて、現代の社会環境を生み出したのでしょう。 そのように考えると、弱さや欠点が転じて、繁栄に導いた、とも言えます。逆説はまた真なりと 言えるのでしょう。

2025年6月12日木曜日

2025年6月度「龍池町つくり委員会」開催

6月10日に、「龍池町つくり委員会」が開催されました。 まず、8月30日に開催される、龍池学区恒例の「夏まつり」に、鷹山のお囃子体験のプログラムを組み入れ られないかということを、検討しました。これは将来的に、鷹山の日和神楽を当学区北側に誘致するために、 鷹山保存会と学区の関係を維持することが必要であると考えるからで、当初は、祇園祭までの6月か7月に 単独で実施する予定であったところ、6月7月は先方の予定が立て込んでいて、それでは、「夏まつり」の 一つのプログラムとして、組み入れてはどうかということになった次第です。 事前に私が、連合会長の許可と、町つくり委員でもある鷹山関係者の森さんに可能であるかの打診をして、 今回の委員会にその案を持ち込みました。まず、出席されているマンガミュージアムの事務局長勝島さんに、 タイムスケジュールの面で、プログラムへの組み入れが可能であるかを確認し、十分可能であるということ なので、他のメンバーの意見を聞いて、正式に鷹山保存会に出演を依頼することになりました。 その場合、マンガミュージアムが作成されるポスターと各町会回覧用のチラシに、このプログラムの告知を 記載して頂くことと、新たに町つくり委員会町でも、鷹山お囃子体験メニューに特化したチラシを制作して、 8月頃に回覧することになりました。 その他の報告事項としては、京都外国語大学南先生より、「南町つくりゼミ」の役行者山での祇園祭の手伝 いの予定が報告され、また同ゼミでは、メンバーによる龍池学区の町歩きを実施するということです。 マンガミュージアムからは、7月27日に地域の子供たちにマンガの描き方を漫画家の先生が指導する、「マン ガ道場」の開催、8月23日には、同ミュージアムの荒俣館長による、「大人ゆうれい教室」が開催される ことが、報告されました。

2025年6月5日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3333を読んで

2025年2月4日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3333では 『新明解故事ことわざ辞典』の記載から、次のことわざが取り上げられています。   耳は大なるべく口は小なるべし このことわざは、「情報は広範囲から得るのがよいが、それを人に語るのは控えめにしたほうがいい」 という意味のようです。 確かに、情報は色々な所から得て信憑性を高め、正確を記するのが良く、それでいて、それを自ら 発信するときには、その情報の他への影響や、発信することの損得も考慮に入れて、慎重を記すのが 得策でしょう。それが思慮深いということだと思われます。 他にも「耳の楽しむ時は慎むべし」(甘言に十分注意すること)「耳に釘」(相手に警句を発する) など、耳にまつわることわざは多いようです。このように聞くという行為は、見ると並んで、社会や 周囲の状況を把握し判断するために、大変重要な行為であると思われます。 しかし現代は、グローバル化、情報社会化の弊害として、目と耳に情報が過剰に入ってきて、返って 判断を誤らせるという事象も生まれてきているように思われます。この場合は、入ってきた情報を 正確に取捨選択する知性、冷静さの必要性が、更に増してきているように思われます。

2025年5月29日木曜日

「マルテの手記」を読んで

高名な詩人による、手記と呼ぶには断片的で、とりとめの無いような作品です。 訳者前書きにも記されているように、リルケの分身でもあるような人物マルテの、幼時の回想や文化の 中心パリへ単身出てきて感じたこと、他方歴史的人物の最後について、あるいは、物、人、神、愛など についての哲学的思考など、脈絡のない書き付けのような断章が並んでいます。 前書きのアドバイスもあったので、全体を統一した物語と捉える考え方からは離れて、それぞれの断章 を、主人公の時々の思考に寄り添う気持ちで読むように努めました。 そのように読み進める課程で、私の一番印象に残ったのは、マルテの幼時から思春期にかけての回想的 部分です。作中のマルテは、デンマーク王室の侍従長を祖父に持つ貴族の家系に生まれ、成長するまで は貴族的な生活を送りますが、既に彼の家系の没落は進行していて、彼自身の生活にも影を落として います。 そのような状況における在りし日の優雅な生活の回想や、親族、縁の人々の立ち居振る舞い、とりわけ 祖父の威厳ある態度は、かつての華やかな貴族文化を想起させます。 またマルテが幼い頃に亡くなった美しい母への複雑な想いも含む追慕、そして恐らく、母の面影を宿し ていた故に、マルテの幼い恋の対象となったであろう、母の一番下の妹アベローネへの思慕。因みに 彼女は、マルテの詩心のミューズであったと推察されます。 これに関連して少し話はそれますが、彼がアベローネにパリのクリュニー美術館の有名な「貴婦人と 一角獣」のタピストリーの美について語りかける断章では、私自身が藤田嗣治の生涯を描いたある映画 で、パリに着いて同美術館に赴いた藤田の目を通すという形で、この美しいタピストリーを詳細に観て いたので、リルケの詩的な描写がその時の感慨とシンクロして、ヨーロッパ美術の美の精華を追体験 する思いがしました。 本作の後に添えられている、精神科医である斉藤環による病理学的視点に立った解説では、リルケは 「強迫性障害」や「統合失調症」的な資質を有していたと言います。特に、マルテと同様に経済的展望 なしに単身パリに滞在した時には、精神的危機を抱えていた可能性があると言います。 この「マルテの手記」は、その克服のために描かれた作品であり、詩人リルケが大成するために、不可 欠の作品だったのでしょう。

2025年5月21日水曜日

高田里恵子著「文学部をめぐる病い」を読んで

戦前から戦後にかけての東大文学部独文科出身のドイツ文学者の振る舞い、業績を通して、文学部という特殊な 世界を明らかにすると共に、彼らが日本の思想、文学界に与えた影響を振り返る書です。 私自身にとっては、文学部は縁遠い世界ですが、彼らが日本のドイツ文学受容の橋渡しをしたという意味では、 全く恩恵を受けていない訳ではありません。 事実私は、中学生時代に教師に勧められてヘッセの「車輪の下」を読んで感銘を受け、以降トーマス・マンへと 読み継いで、自分の人格形成期に少なからぬ感化を受けました。また最近はカフカを読んで、混迷の時代の心の 持ち方を示す文学であると感じています。 さて、そのような彼らの功績はさておいて、本書が主に取り上げるのは、明治以降の文明開化、いわゆる脱亜 入欧、富国強兵、殖産興業の政治方針に組み入れられた、官立大学に占める文学部の意味と、それ故そこに帰属 する彼らの懊悩です。 つまり彼らは、その分野の最高権威として、ドイツ語、ドイツ文化を日本に紹介する任を担っていましたが、 それが必ずしも、目に見える形で国家の近代化や文化的向上につながる役割を果たした訳ではない、ということ です。すなわち、文学が実利的ではなく、教養主義的な性質もあって、彼らは学部内でいかに優秀な成績を修め て卒業しても、教師としてのドイツ文学紹介者にしかなれなかったということです。 本書の前半では、そのようなドイツ文学者の好例として、高橋健二が取り上げられていますが、彼は戦前から ヘッセの翻訳者として知られ、ドイツでナチス台頭後はナチスを賞賛する作家の日本への紹介を行い、戦後は ナチスに批判的であったヘッセを、改めて評価する活動を行ったといいます。 また、戦中は大政翼賛会文化部長として、思想統制の一翼を担いながら、戦後には自らのその行動を、抑圧的な 体制の内部に入り込んで、良心的な抵抗活動を行っていたと、弁明したといいます。この日和見的な行動は、 現代的見地に立てば不誠実であると感じられますが、彼が時の国情に適う文化の紹介者としての務めを果たして いたようにも思われます。そこには、急激な近代化を遂げたこの国の、様々な矛盾が関わっているように感じら れます。

2025年5月14日水曜日

2025年5月度「龍池町つくり委員会」

5月13日に「町つくり委員会」が開催されました。 まず先日、御池之町のマンション建設計画について、マンション建設業者による地元説明会がマンガ ミュージアム自治連会議室で開催された時、私は町つくり委員会を代表して出席しましたが、その時 に御池之町側の代表の一人として参加していた町つくり委員でもある寺井委員が、業者に対して町内 との協約書の締結が前提であるという趣旨の話をされていたので、私自身自分の町内にまだマンショ ンは建設されていないので、これからの他町でのマンション建設時の参考にするためにも、協約書の 意味について質問しました。 その答えによると、マンション建設時には、京都市からも業者に対して協約書の締結が求められて いるようで、建設工事において地元に迷惑を掛けず、安全に留意することや、マンション住民が町費 を納めて、一定程度町内会活動に関与することを奨励するなどの規定が盛り込まれているそうです。 私は浅学にしてそのような規定の存在を知らなかったので、ある町内に初めてマンションが建設され る時にこの規定を活用することの必要性を認識すると共に、これからマンション住民も含めた町つく り活動の企画を推進していく上で、参考にすべきこであると感じました。 当学区の町つくり活動に協力して頂いている、京都外国語大学南先生のグループの活動報告としては、 まず5月21日に大原学舎で御所南小学校児童による田植えが行われるということで、南先生の他5名が 手伝いをして頂くということです。 また祇園祭関連では、学区で開催を予定する「祇園祭町つくり講座」の準備のために、南先生が学区 内の山である鈴鹿山の山鉾関係者と面談して頂いたようで、山の運営が伝統工芸館と町内の地主の方 2人、企業2社によって行われているということで、上記講座への参加は理事会に諮らねばならないが、 前向きに検討するということでした。 もう一つの山である役行者山では、「南町つくりゼミ」という形で、すでに祇園祭にちなむ手伝いを して頂いていて、これから進める活動としては、山の懸送品とうの展示空間の環境検査、展示内容の 監修、そして将来的には展示品のガイドなども行えるようになればということでした。こちらも、 上記講座の開催には協力して頂けるということです。 さて具体的な当委員会の催しとして、6月半ば以降、7月初旬までの土曜、日曜に、マンガミュージア ムの自治連会議室で、鷹山囃子方による龍池学区の子供たちを対象としたお囃子体験会を実施出来な いかという提案があり、可能かどうかを、町つくり委員で鷹山関係者でもある森委員に、早速問い合 わせることになりました。

2025年5月7日水曜日

「鷲田清一折々のことば」3327を読んで

2025年1月27日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3327では 日本文学研究者ロバート・キャンベルの随想「幸せは輪のように、巡りくるもの」(JAF Mate編『幸せっ て何だろう』所収)から、次の言葉が取り上げられています。    高いところから甘い固形物がズドンと落    ちるというより、幸せがぽたぽた「零れ    る」方が幸せの実感に近いのではないか。 人生を長く生きていると、確かに思いがけぬ幸運や、瞬間的な幸福の絶頂というような経験もあります。 でもそれらは、後から振り返るとはかない一夜の夢のように回想されて、なかなか実感を伴って、思い 返すことの出来ないことのように思われます。 それに対して、じんわりとわいてくる幸せ、何かをやりながらしみじみと感じられる幸福感、ことの後 に気づかされる満ち足りた気分などの方が、実感を伴う幸せのように感じます。 正に上記のことばが示してくれるように、このような幸福を味わう為に、地味でも堅実な努力を積み重ね て、日常の些事の中に喜びを見出しながら生きて行くのが、私には理想的な生き方であるように思われ ます。

2025年4月30日水曜日

「鷲田清一折々のことば」3299を読んで

2024年12月21日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3299では 教育社会学者・苅谷武彦の『学校って何だろう』から、次の言葉が取り上げられています。    自分でつかんだわけではない幸運に、ど    れだけ責任をもつのか。 私たちはどの親の許に生まれるかを選べない。しかし与えられた境遇の差は人生に濃い影を 落とす。だから恵まれた人は「自分で選んだわけではないことで自分が有利になった」こと に自覚的であれと、この教育社会学者は言います。 この言葉は、胸にしみます。私の生きてきた道筋を振り返っても、私は自分の人生の各段階 それぞれにおいて、色々な悩み事はあっても、基本的には経済的困窮も無く、また、5年前の 大腸癌手術を除いて、肉体的な危機もなく過ごしてきました。しかし、日常の些事や去来す る心配事にかまけて、自分が人より恵まれていることなど、全く考えませんでした。 でも、客観的で、俯瞰的な目で見れば、確実に市井の人々の中で、比較的不自由のない境遇 に生きてきたと思います。しかしそのような現実には気づかずに、ましてや恵まれていると いう感謝の気持ちもなく、、日々の暮らしに追われてきたと感じます。 もし自分の人生が他より恵まれていることに自覚的であれば、少なくとも社会的使命感が生じ たり、他者に対して優しくなることが出来ると思います。これからは自分自身が老境に入り、 自分の心身を気遣わなければならない場面も増すと思われますが、このような意味での感謝も 忘れないようにしたいと思います。

2025年4月25日金曜日

洲之内徹著「気まぐれ美術館」を読んで

画廊主、小説家、エッセイスト洲之内徹の「芸術新潮」人気連載をまとめて、書籍化した本です。 彼が美術に造詣が深いのは言うに及ばず、左翼運動で戦前に投獄され、敗戦後には貧しさから家族離散を 経験するなど、その波乱に富んだ経歴によって培われた独特の美術観も相まって、他の追随を許さない ユニークな美術エッセイになっています。 私小説的美術エッセイとも言われ、美術の話よりも、直接的に関係の無い個人的体験が主な話題になって いる回も見受けられますが、私が興味を引かれたのはやはり、絵画、画家にまつわる話題で、画廊主とい う立場の人間のそれらへの濃密な関わり方が、一番印象に残りました。 まず気を引かれたのは、林倭衛の1919年の絵画「出獄の日のO氏」という油絵作品(モノクロの図版有り) です。さてO氏とは、関東大震災直後憲兵に連行され、虐殺された、無政府主義者大杉栄で、この半身の 肖像画も頬のこけた痩身で、意志の強そうな眼光はあくまで鋭く、一種鬼気迫る面構えになっています。 この作品は、倭衛によって二科展に出品されようとしましたが、当局に阻止され、それに抗議して大杉が 展覧会に突入を画策した逸話もあります。しかし以降画家本人の元に秘蔵されていたことになっていま したが、実は戦前の内務省警保局長の人物が長くこの作品を所持し、後に二・二六事件が起こるなど世相 が不穏になってきたので、立場上絵を倭衛に返したといいます。 その経緯を知った洲之内が、以前「芸術新潮」に書いた記事が再び話題になって、この連載で再度取り上 げています。一枚の絵画の数奇な運命と洲之内自身の過去が微妙に重なって、味わい深いエッセイになっ ています。 次に無名の内に癌で夭折した、田畑あきら子という画家について。洲之内は、遺稿集である彼女の詩画集 をもらって、その魅力の虜になり、彼女の地元の新潟の美術館でも素描作品を観て確信を深め、彼女の姉 の家を訪れて油絵の作品を観ます。その時、姉から彼女の最後の様子を聞いて、彼女の残した詩、絵、 言葉から、彼女の芸術に対する思索を深めるのです。田畑あきら子の残した言葉、ー美しきもの見し人は、 はや死の手にぞわたされけりーが心に刺さりました。

2025年4月17日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3289を読んで

2024年12月11日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」では ライター北尾トロの『長く働いてきた人の言葉』から、次の言葉が取り上げられています。    あえて言葉にされない平凡な1日の積み    重ねが、その人の厚みになっている。 北尾は、「いろんな職業の人に話を聞いてきたが、心底感心した人に、劇的な人生を送った人や高みから 教訓を垂れるような人は一人としていなかった」と言います。 そう、有名人であったり、格別の実績を収めた人より、名も無く、コツコツと生きてきた大多数の人々の 中にこそ、温厚篤実な人は居るのでしょう。逆に社会で成功する人は、他より抜きん出るために、自己 主張が強かったり、人を出し抜くような誠実でない部分があったり、あるいは、初心は素晴らしい人品の 持ち主であっても、周りからちやほやされる内に、わがままが顔を出したりするのかも知れません。 特別恵まれずとも、与えられた日常を精一杯、ただ黙々と生きてゆく。そういう心構えの人の中に、いぶし 銀のように輝くものが生まれうるのだと思います。でもこれは、決して容易に達成されるのではなく、なぜ なら、起伏のない平穏な日常を淡々と生きることには、信念と受容と、忍耐が必要なはずだからです。 一貫して平凡な日常を歩んできた私も、そのような人になることを目標として、残りの人生を生きていき たいと思います。

2025年4月9日水曜日

2025年4月度「龍池町つくり委員会」

4月8日に「龍池町つくり委員会」が開催されました。 まず、自治連合会に提出するために私が作成した、令和6年度の「町つくり委員会」の活動報告書、決算書、 及び令和7年度の活動計画書について、委員会で審議しました。概ねのところは了承を得ましたが、これら の書類の提出に合わせて、連合会役員並びに、各種団体長に当委員会への勧誘のチラシを配ることについて は、その対象を各町会長にも広げて参加を呼びかけることになり、新たに各町会長向けのチラシも作ること になりました。 会議内容に入り、南先生から自主ゼミグループの今年度の取り組みについて説明があり、今会議当日出席 いただいたゼミグループ10名のメンバーを、大原担当、祇園祭担当、役行者山担当と3つのグループに分 けて、企画を進めていくということで、それぞれのリーダーから経過報告等の発表がありました。 大原グループは、学区の催事で提供するシソ、ジャガイモ栽培の他に、大原郊外学舎に藤棚を作る計画の 進捗状況、さらには南先生より、渡り蝶であるアサギマダラが大原でも見られることから、学舎の敷地の 一部に、この蝶が好むフジバカマを植えて、蝶の飛翔が学舎でも観られるようにする計画についての提案も ありました。更には、大原の農産物をマンガミュージアムで産直販売してもらう計画(マルシェ)について も、大原学区の責任者と話し合って頂いたようで、具体化に向けて話を進めることになりました。 祇園祭の催事については、まだ実現に向けての計画段階で、役行者山の手伝いについては、準備段階として、 懸装品の修復の見学などを行っているということでした。それぞれの企画の具体化、統合に向けて、委員会 でもバックアップをして行きたいと考えています。

2025年4月4日金曜日

「鷲田清一折々のことば」3279を読んで

2024年11月30日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3279では 俳優沢村貞子の随筆集『わたしの台所』から、沢村の母の次の言葉が取り上げられています。    「あんまりこぎたない格好をしている    と、はたの人に気の毒だからね」 この言葉は、身だしなみという行為が、自分をやつして見栄え良く見せるというためではなく、 他人に不快と思わせないためになされるべきものであるということを、語っています。 確かに私の周囲でも、以前には庶民の間に、このような感覚があったと思います。だからいた ずらに、お洒落な服を着て、着飾るのではなく、体を清潔に保って、高価では無くても、手入 れの行き届いた服装を心がけるというような・・・。 ただし昔は、職業や生活レベルによって、ある程度服装の規範が定まっていたようなところが あって、この階層の人はこれくらいの素材で、そのような縫製の衣服を着用する、という慣習 があったように思い出されます。 だからある意味現代のように、必ずしも服装でその人の職業や、生活水準が判断出来ないという ことも、社会生活における公正さという点では、好ましいのかも知れません。 しかし私は、例え日常的な装いであっても、周りの人を不快にさせない心配りというものは、 必要であると考えます。自分の都合だけではなく、周囲の人々との調和も考える。これは、公共 性を有することにもつながるのではないでしょうか。

2025年3月27日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3271を読んで

2024年11月22日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3271では 詩人、批評家大岡信の『肉眼の思想』から、次の言葉が取り上げられています。    専門家とアマチュアの区別は、作品の質    の良し悪しとは別個である。 この詩人は、「先人たちの仕事の累積の中に自己自身を自覚的に位置づける意思と実行力を 持つ者」が専門家であると、考えていたようです。しかも「歴史を踏まえているというにとど まらず、つねにそれらに厳しく対峙するような緊張の中にいるということだと」 これはもっともな言だと思います。専門家であるためには、自分の技量、知識量の高さは言う までもなく、しかもこれらは、その分野の伝統に培われたものを熟知、体感して、その前提の 上に築き上げられ、蓄積された種類のものでなければならないでしょう。 昨今は、今成というか、生半可に技術や知識を習得して、それで専門家然と振る舞う人も見受 けられますが、結局のところ、蓄積されたものの裏付けや、それを基盤とする矜持や覚悟が なければ、直ぐにメッキは剥がれるものだと思います。 私も自分の商いという、限られた小さな分野においては、少なくとも、専門家的でありたいと 考えています。

2025年3月18日火曜日

内田百閒著「第一安房列車」を読んで

鉄道紀行文学の秀作であり、今も読み継がれる名作、内田百閒の第一安房列車を読みました。とにかく、 旅の浮き立った気分が味わえて、楽しかったです。 その楽しさの基調には、戦後復興期で多くの人々が多忙に働く中で、「なんにも用事がないけれど 汽車に乗って大阪に行って来ようと思う。」百閒先生の気楽さがあると思います。この作品を読んだ 当時の人々は、どれほど先生の気楽さに羨望を感じたか分かりません。 しかし、この常識に囚われない自由さは、信念に基づく筋金入りです。先生は、名の知れた小説家でし たが、決して特別の経済的ゆとりがあった訳ではなかったようです。それでも、借金をしてまで等級の 高い車両に乗って、優雅な旅を楽しみます。また、時間には特に、余裕を持たせることを心がけます。 朝の早い列車には乗りません。もし以降のスケジュールに都合のいい列車が朝に東京を出発するなら、他 の遅い時刻に出発する列車にあえて乗車して途中まで行って、一泊し、そこから翌日の遅い時刻に、 東京発の前述の同じダイヤの列車に乗るようにします。因みに、旅先の旅館でも、朝食は取らず朝寝し て、夜の酒席に備えます。勿論列車内でも食堂車があれば、酒をたしなむことを忘れません。 またせかされて列車の乗り換えはせず、そのために2時間待ちも厭いません。このように徹底的に、時間 に余裕のある旅を貫きます。更には、先生の社会の常識的な価値観を超越した批評精神が、独特のユー モアを伴って、記述に味を添えます。旅先で出会った人々の人間観察、権威には媚びず、歯に衣を着せ ず、名の知られた観光地には行かないで、何気ない風光に美を見出します。そして、鉄道に乗ることが ただ楽しいのです。 しかしここで言い忘れてはいけないのは、百閒先生自身がある意味、特権階級であるということです。 彼の気ままで、我がままな旅を支えるのは、弟子で同行者で、鉄道関係者のヒマラヤ山系こと平山氏 です。二人の取り合わせには、先生の毒気を中和する役割があり、その旅先でのやり取りには、漫才の 掛け合いにも似た、おかしみがあると感じられました。 最後になりましたが、この名作紀行文学を現代の視点で読むとき、戦後直ぐの頃の鉄道事情が、興味深く 感じられます。またこの部分が、鉄道好きにはたまらないと思います。

2025年3月12日水曜日

2025年3月度「龍池町つくり委員会」開催

2025年3月11日に、3月度の「町つくり委員会」が開催されました。 今回から、中谷委員長が定例の委員会へ出席されないことになって、副委員長の私三浦が、単独で委員会の 進行を担う事になりました。何分不慣れなために、不行き届きの点もあるかも知れないが、各委員のご協力 のもと、今までよりもより開かれた会の運営を行っていきたいと考え、その旨冒頭に説明し、了解を得まし た。 最初に澤野委員より、中谷委員長から託された、「歌声サロン」の担当者会議の議事録が配布され、それに ついての説明がありました。これはこの行事を町つくり委員会が後援することについて、寺井委員より疑義 の申し立てがあり、その釈明のため提示されたという経緯があります。 この行事への町つくり委員会の関わりの根本的な問題点としては、龍池学区の参加者が少ないということで あり、また中谷委員長が今まで後押しされてきたこともあって、協議の結果今しばらく、当学区民の参加を 促す告知ポスター、回覧チラシの各町への配布を続けながら、成り行きを見ようと言うことに、委員の意見 が一致しました。 次に「鷹山日和神楽」の誘致の方策について検討が行われ、今年度の誘致は無理としても、翌年度以降の 可能性を残す為にも、6月くらいにマンガミュージアムに鷹山囃子方をお呼びして、子供を含む学区民対象 の演奏、体験のワークショップが開けないか、という話になり、もし開くとするならば、鷹山だけではなく、 学区内にある他の山、役行者山、鈴鹿山も含めて、当学区における祇園祭を巡る催事という形で、話を進め ようということに話がまとまり、南先生の自主ゼミグループにもご依頼して、企画を立案していくことに なりました。 次に大原学舎の活用については、南先生のグループメンバーが、当地で学区民に提供するためのジャガイモ、 シソの栽培の活動を続けておられますが、更に寺井委員より、龍池と大原の交流をより深めるために、大原 で栽培された農産物を当学区に販売に来てもらうという企画は出来ないか、という提案があり、マンガミュ ージアムを会場として、そのようなことが実現可能かどうか、南先生にもご協力頂いて、更に検討を重ねる ことになりました。 今回の「委員会」は、建設的な提案も多く出て、私にとっても、初回としては安堵できる結果となりました。

2025年3月6日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3255を読んで

2024年11月5日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3255では 劇作家・評論家福田恆存の随想「物を惜しむ心」(1964年)から、次の言葉が取り上げられています。    物を破壊する事によって、その人は物の    中に籠もっている人の心を殺してしまった    のです。 日本人は古来、使い込んだ物には魂が宿ると考えて来ました。例えば、付喪神を信じるという風習も あります。 更には、ある人が日常大切に使っていた物には、その人の想いが宿るという考え方も、生まれたので しょう。 だから上記のことばの言うように、物を壊す事は、それを使っていた人の心を壊すことにつながるの でしょう。ちょっとこの場の例として適切かどうかは分かりませんが、葬式で霊柩車が発進する時に、 故人の日常使っていた茶碗を割るのは、故人のこの世への想いを断つ、ということでしょうか? さて、物を大切にする心は、他者への慈しみや、感謝、礼節にもつながると、私は考えます。特に その物自体が、手工芸品など丹精を込めて作られた物であるなら、その物を作った人に想いを馳せ ながら大切に使うことは、作り手と使う人の心の交流を生み出すと思うのです。 日常使用する品の内の数点でも、私はこのような愛用すべき物を見出し、大切にしたいと、心がけて います。

2025年3月1日土曜日

ソロー著「ウォールデン 森の生活」を読んで

アメリカの近代人による、アウトドアライフの思想の原点と言って良い作品です。かねてより難解という風評 があって、読みあぐねていましたが、思い切って読むことにしました。 まず感じたのは、確固たる信念に基づく書であるということです。というのは、本書が著された時代アメリカ では、プロテスタンティズムが資本主義と強く結びついて、勤勉な経済活動が国民の義務と強固に意識されて いた中で、ハーバード大学卒業という、当時の選ばれた知的エリートであるソローが、森の中で生産性のない 生活を営むという行為が、背徳的であると見なされたことは想像に難くなく、余程の決意がなければ、この ような生活を決行出来なかったと思われるからです。 事実一部の友人を除いて大多数の周囲の人々が、彼に好奇と非難がましい目を向けているように感じられます。 しかし彼には、このような自然に融け込んだ生活こそが、人間本来の暮らしであるという堅固な信念があって、 この生活から得られる満足と喜びを、独特の詩的な文体で書き綴ったのです。 その文章は、自然現象や樹木、草花、野生の小動物にたいする愛に溢れ、そのような描写の部分は、読むだけ で幸福な気分になります。しかもただ単なる詳細な情景や観察の描写ではなくて、科学的知識や洞察に裏打ち された記述なので、その表現には的確さがあり、読者に対して強い説得力を持ちます。このような特徴が、 以降のアウトドアライフの思想的原点となり得た所以でしょう。 また私が本書に好感を持ったのは、ソローが猟師や木こり、そしてアメリカインディアンなど、無学で社会的 地位が低く、当時上流階級の人々から差別的な視線を向けられていた人たちの中に、野生の生活力という美点 を見出していたことであり、彼らの有するこの能力を敬愛していたことです。そこには、ソローの本質を見抜 く確かな目が感じられます。 本書が著されてから約170年の年月が過ぎ去り、今日の視点から改めて見直すと、彼が訴えたことは、正に現代 社会の抱える切実な問題として、私たちの前に迫って来ます。その意味でも、長い年月が経過しても、決して 色あせない希有の思想書と言えるでしょう。

2025年2月19日水曜日

「鷲田清一折々のことば」3106を読んで

2024年6月4日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3106では この年にノーベル文学賞を受賞することになる、韓国の作家ハン・ガンへの、朝日新聞(5月28日朝刊)の インタビュー「暴力に満ちた世界 光は」から、次の言葉が取り上げられています。    ぎりぎりの、か細い希望の方が本物だと    感じる。 ハン・ガンは、「少年が来る」で光州事件の悲惨な状況を、それでも詩情を失うことなく描いています。 私はこの言葉を読んで、その描写方法を思い出しました。 事件が生々しく、陰惨であればあるほど、その現実を冷徹に眺めながらも、それでも未来への一縷の希望を 失わない。それだからこそ、美しい言葉を紡ぐことが出来るのだと感じます。 残酷であればあるほど、その事実を乱暴に叫ぶように描くのではなく、それを一旦深い悲しみと共に心に 受け止めて、なおやむことの無い思いを振り絞るように、それでいて切々と美しい文章で伝える。 その文体が、彼女の切ない希望を、読者に送り届けているのではないでしょうか?この時代に読むげき作家 だと思います。

2025年2月13日木曜日

東浩紀著「訂正する力」を読んで

近頃の日本は、何かと息苦しさを感じさせます。まず、長年の経済の停滞による国際競争力の低下です。今まで は漠然と感じられていただけでしたが、ここに来て、対外金利差による円安が顕著になって、他の国々との物価 の格差から外国人観光客が急増し、物価高などの要因によって、自分たちの日々の経済活動が思うに任せない中 で、その様子を見ているだけで複雑な気分になります。 また、電話やメール、SNS等による詐欺行為が横行して、人間不信を増幅しているように感じられます。更には、 SNSの炎上現象や、文春砲に代表される、著名人の不道徳の過度の告発は、人々の社会生活を萎縮させているよう に感じられます。他にも、少子高齢化、天災の多発や政治不信など、不安をかき立てる要因は、枚挙に暇があり ません。 このような現状にあって、東浩紀の提唱する「訂正する力」は、確かに切れ味鋭く、説得力のある一つの解決法 であるように感じられます。このことこそが、本書が社会にインパクトを持って迎えられた理由でしょう。日本 人には元々著者が言うように、訂正を良しとしないような一本気な気質があるのでしょう。その性格は長所でも あり短所でもあります。 その資質は、第二次大戦の敗戦後は、驚異的な経済復興を遂げる原動力ともなりましたが、絶頂期からバブル 崩壊に伴って、一定水準で達成された経済的な豊かさの中で、今度は危機感に目をつむり、現状を肯定して、 対策を先延ばしにするような内向きな思考に導いたに違いありません。 政治的には、敗戦後に制定された日本国憲法は、作成過程に果たして自主的なものであったかという異論はあって も、その要の平和主義は、画期的な理念に基づくものであったでしょう。しかし、今日の国際環境の目まぐるしい 変化は、否応なしにその更新の必要性を示しています。 あるいは、資本主義の高度化、IT化による、スピードと効率の重要性の増加は、益々人々に無駄の排除や、即断 即決を求めますが、そのような時にこそ、一歩退いた視点で冷静な判断を下す必要性も、増しているのでしょう。 日本人がいたずらに劣等感にさいなまれ、悲観主義に陥るのではなく、もう一度自信を取り戻し、前に進むため にも、本書の「訂正する力」は、思想的カンフル剤となり得ると、私は感じました。

2025年2月6日木曜日

「鷲田清一折々のことば」3096を読んで

2024年5月25日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3096では 彫刻家・批評家小田原のどかの展覧会《ここは未来のアーティストたちが眠る部屋となりえてきたか?》 の図録でのインタビューから、次の言葉が取り上げられています。    「歴史のもしも」を考えることが「抵     抗」になりうる この展覧会を観ていないし、図録も読んでいないので、私の憶測の域を出ないのですが、「ある種の作品 にのみ不変の価値を認める美術史の制度は、政治的な負荷のかかった規範とその解釈の歴史であった」と 小田原も語っているようなので、現在定着している美術史を批判的に捉え直すことの必要性を、彼女は 訴えているようです。 確かに現在流通している美術史は、蓄積されてきたものであるにしても、ある作品の歴史的な位置づけや、 評価は、これからも更新される可能性があるものですし、それで確定したものということはないでしょう。 例を挙げれば、印象派が出てきた時には、新古典派の絵画が主流であった画壇や批評家たちによって、 散々けなされたようですし、その中で徐々に受け入れられて、今日の評価を得ている訳です。 またナチスは、政権を担当していた時、伝統的な絵画表現を評価し、前衛的な表現手法の画家やその作品 を弾圧しました。それ故、歴史のもしもは、新たな可能性を見出すことにもなるのでしょう。 その意味では、埋もれた画家の発掘、再評価の試みなどは、現在の価値観に抵抗を示す、刺激的な試みで あるのかも知れません。そのような画家の作品に出会った時の私の喜びは、評価の定まった作品に接する 時の安心感に比して、心をざわつかせるものであるに違いありません。

2025年1月27日月曜日

五百旗頭真著「首相たちの新日本」を読んで

先般亡くなった政治学者で歴史家の著者による、第二次世界大戦の敗戦から占領統治の終わりまで、我が国の 五人の首相による、六代の内閣の業績を丹念に辿る、政治史の書です。 今日の日本では、バブル崩壊後の不況の後遺症をなお引きずりながら、新型コロナによるパンデミック後の 激しい物価高に見舞われる中で、自民党の圧倒的過半数を占める内閣は、政治的混迷を深めています。 国土が焦土と化した敗戦から我が国が立ち直り、後には高度経済成長という輝かしい復興を遂げるに至る過程 で、政治的に如何なる努力が行われたかということを知ることは、今日の政治状況を考えても、何らかの意味 があるのではないかと思い、本書を手に取りました。 まず戦後生まれの私には、敗戦直後の混乱は想像もつきませんが、敗戦二日後に首相に就任した東久邇宮稔彦 は、いつ敗戦を認めない軍人のテロによって命を落とすとも限らない覚悟で、この重責を引き受けたといいま す。その意味でも、彼が皇族で軍人であるという経歴は、反対派を抑える欠かすことの出来ない要件であった でしょいう。この描写を読んで私は、敗戦直後の息詰まる緊張感をひしひしと感じると共に、軍国主義の狂信 というこの国をむしばんでいた病理を実感しました。 東久邇内閣は、首相の政治的経験不足もあって直に崩壊しましたが、敗戦の混乱を治めたところに、大きな 価値があると感じられました。 次の幣原内閣は、戦前の良心的外交官であった彼が、高齢と病身を押して首相に就き、GHQにも評価されて、 経済的窮乏の中で援助を引き出すことが出来ました。幣原首相の業績の中で興味深いのは、彼が戦前軍部の 横暴に抵抗したにも関わらず、旧憲法の部分的修正で戦後も事足りると考えていたことです。結局GHQの圧力で、 憲法改正時の当事者の内閣となったところが興味深いです。 短い第一次吉田内閣を経て、片山、芦田の中道左派内閣は、GHQ民生局の後ろ盾がありながら、首相の統率力 不足で早くに崩壊しました。我が国の現代政治における中道左派の立ち位置が、この頃から変わらないことには 野党勢力の不甲斐なさを感じます。 そして満を持して登場したのが、保守党の第二次吉田内閣です。吉田首相は堂々とGHQとも渡り合い、講和条約 を成立させて、占領の終了と後の経済発展の礎を築いたのです。 このように見ていくと、民主主義政治においては、健全な政権交代が発展をもたらすと感じられます。今日の 日本の政治状況は、如何なるものでしょうか? (2024年7月26日に記しました。)

2025年1月23日木曜日

2025年1月度「龍池町つくり委員会」開催

1月14日に、1月度の「龍池町つくり委員会」が開催されました。前年12月は、年末ということで 休止したので、2ヶ月ぶりの開催と言うことになります。 ところが今回は、京都外大の南先生と澤野委員がお休みされたのと、京都外大グループの大原学舎での 活動と鷹山日和神楽の誘致活動に特に進展がなかったので、学区及び自治会活動の現状の検証が中心と なりました。 まず、マンガミュージアム事務局から、マンホールトイレの設置がほぼ完了したとの報告があり、それ に伴って、近いうちに自主防災会役員によるこの設備の使い方の研修会を開くことの必要性が確認され ました。 次に中谷委員長から、11月度の委員会でも提起された、災害避難時の高齢者のミュージアムへの入り 口として、両替町側からのルートの整備の必要性の話が出ました。これは、ミュージアムの立地と構造 状費用もかかり、簡単に改善出来ることではないので、引き続き検討課題ということになりました。 次に京都外大グループの出席者の方から、大原学舎の利用規則について質問があり、原則営利目的以外 ということが確認され、また利用許可は、長年担って頂いている、前町つくり委員の寺村さんに求める ということが示されましたが、これについても中谷委員長から、現在学区に居住していない人物が全権 的このような役割を担うのは適切であるか、という問題提起がありました。 ただ寺村さんには、長年の実績があり、他の役員にも適任の人物が見当たらないので、当面はこの体制 を続けるしかないと思われます。 最後に寺井委員より、当委員会が後援している「歌声サロン」を、町つくり委員会がサポートする必要 性があるのかという問題提起があり、その背景としては、参加者の中の学区民の割合が少ないという ことが挙げられました。この活動は確かに高齢者にとって有意義ではありますが、当委員会でポスター 掲示や、回覧用のチラシの制作などの活動をしているにも関わらず、なかなか学区民の参加者が増え ない現状があります。学区民の参加を促進する、新たな施策が必要かも知れません。 今回の委員会の話題は、ほとんど前向きなものではなく、私自身次回以降は、もっと建設的な議題で 意見の交換が出来ればと考えています。

2025年1月17日金曜日

「鷲田清一折々のことば」3088を読んで

2024年5月17日付け朝日新聞朝刊、「鷲田清一折々のことば」3088では 免疫学者・多田富雄の随筆集『独酌余滴』から、次の言葉が取り上げられています。    迷惑をかけたり、かけられたりしなが    ら、濃厚で味わい深い人間関係が作られ    てきたのだ。 鷲田の解説文にもあるように、私たちは小さいときから、親に人に迷惑を掛けない人間に なりなさいと言われて育ちますが、人生経験で印象に残っているのは、人に迷惑を掛けた 失敗体験であることが多いように思われます。 それだけ私たちは失敗をする者であり、そのような失敗こそが、忘れがたく心に残るもの なのでしょう。 また人に迷惑を掛けられたことも、その時は腹立たしいのですが、よほどの実害がないこ とは、後々にはいい思い出になったり、その人の人となりを知るきっかけになったり、 するものです。 要するに、出来るだけ他人に迷惑を掛けないように心がけながら、でも往々に人は失敗す るものだと達観して、ゆとりを持って物事に取り組み、また、他人に対しても失敗や迷惑 を掛けられたことを大目に見るような、寛容な心を持てれば、この世も生きやすいという ことでしょう。 でも自分の失敗も、他人に迷惑を掛けられることもなかなか許せない。つくづく人間は、 業の深い生き物です。

2025年1月8日水曜日

吉本隆明著「良寛」を読んで

名利や権力を求めず、襤褸をまとい、郷里近くの荒ら屋に隠棲しながら、時に村の子供と手鞠に興じ、托鉢 三昧の生涯を送った良寛も、気鋭の思想家吉本隆明によると、ラジカルな先鋭思想の実践者の相貌が浮かび 上がることになります。 そう言われれば、それはそうでしょう。僧侶でありつつ優れた詩歌の作り手であった彼が、自らの生き方に 思想的裏付けを求めないはずがないからです。 道元に憧れ曹洞宗に入門、『正法眼蔵』を学びながら、大忍国仙という直接の師を得ます。良寛の僧侶とし ての思想を知るには、常不軽菩薩への傾倒が重要であると、吉本は語ります。この菩薩はいつも人を軽んじ ない菩薩で、人間は誰でも菩薩あるいは仏になれる存在だから、自分は何時でも何処でも誰にでも、礼拝す ると言うのです。 従って、礼拝された者たちの方がかえって、馬鹿にするなと怒ったり、罵ったりしますが、そんな反応に一 切お構いなく、ただひたすら、どんあ相手に出会っても礼拝するといいます。また良寛は、人から揮毫を頼 まれると、『正法眼蔵』のどうしたら菩薩になれるかを示す、「菩提薩捶四摂法」の条を書きましたが、そ の中でも彼は特に、「愛語」の文章を好んだといいます。 そしてこの「愛語」というのは、普段乱暴な言葉や憎む言葉を吐かないということだそうです。つまり愛す るとか、慈悲の心を持つとか、そういう言葉だけを口にして、憎しみとか人を傷つける言葉は使いません。 彼はこの戒めを徹底して、厳しく自らを律していたといいます。 余談になりますが、私自身個人的にも若い頃、自分の言葉が人を傷つけないかいつもびくびくしていて、そ れが元で赤面恐怖に悩まされたことがあります。従って、この良寛の気質に共感を覚えるところがありまし た。 このような彼の僧侶としての心のあり方は、国仙師亡き後、良寛を寺の後継者争いから排除し、郷里に帰り 自覚的に托鉢を用いた、隠遁生活を送らせることになります。 しかし彼の残した詩歌には、諦観を越えた自在の境地、清貧の中に風物を味わう余裕や遊び心があり、今な お私たちを魅了します。そこには、自身の立つ位置を低く保つことによって生まれた、アジア的な慈悲心が あると、私は感じました。