2015年3月31日火曜日

京都府立文化芸術会館 「孤高の洋画家 薄田芳彦遺作展」を観て

若い頃に美術を志した、祇園祭山鉾連合会理事長 吉田孝次郎さんが
私淑した、洋画家 薄田芳彦の遺作展を、龍池町つくり委員会でお世話に
なっている同志社大学の谷口先生のfacebookでのご案内により、観に行き
ました。

薄田は1898年岡山県に生まれ、川端画学校に学び、東京美術学校入学後、
二科展、帝展、旺玄社展等で活躍した洋画家ということですが、私は彼の
名前も作品も今日まで知りませんでした。

さてこの展覧会は、文化芸術会館の1階・2階の展示室を使って展観されて
いますが、1階には主に晩年の作品が並べられていました。入り口付近より
順を追って観ると、次第に独特の作品世界に引き付けられて行きました。

特にマリオネットを題材とした絵画は、人形に仮託して人間に本来内在する
普遍的な情念を見事に描き出し、他の追随を許さない表現に至っていると
感じました。

一見繊細でありながら、作品の奥底から湧き出るような力強さがあり、その
絶妙のバランスが何とも表現しようのない詩情を醸し出します。誠実で、
求道的な姿勢も作品から感じ取れました。

2階に進むと、一転初期の作品が展示されていますが、みずみずしい
絵画から早熟さを感じながらも、改めて晩年の画境の充実に思いが至り
ました。

いかなる世界ではあれ、人間として歳を重ねることの意味を教えられた
気がして、本展を主催された滝本さん、吉田さん、そしてこの催しをご案内
頂いた谷口先生に感謝したいと思います。

2015年3月29日日曜日

プロ野球開幕ー活字で楽しむ野球観戦

球春の言葉が似合う快晴の3月27日、ファンには待ちに待ったプロ野球が
セパ同時に開幕しました。

阪神タイガースファンの私にとっては注目の、阪神対中日戦は延長10回
サヨナラ勝ちで5-4、タイガースが幸先良い勝利を納めました。

テレビ観戦は残念ながら、時間の都合で出来なかったのですが、スポーツ
ニュースで結果をチェックして、翌日早速スポーツ新聞を開きます。

一面に昨夜のヒーロー、マートン選手の写真が大きく掲載され、球団史上
74年ぶりの開幕戦サヨナラ勝ちの大きな活字が躍ります。

試合経過を読むと、阪神の開幕投手メッセンジャー選手が先に3点の
リードを許し、七回にようやく福留選手の適時打で1点返すもまた1点を
献上、1-4から八回ウラ、クリーンアップ西岡選手、ゴメス選手の
連続適時打で何とか追いつき、迎えた延長10回ウラ5番マートン選手の
サヨナラヒットが飛び出します。

ファンにとっては正にこたえられない展開。続けて紙面を追うと、要所要所に
タイガースの選手の活躍の写真と、それぞれのコメントが並んでいます。

活字好きの私には、我がタイガースが勝った翌日の新聞報道が何よりの
楽しみ。実際にその試合を観戦していても、いなくても、活字でじっくり
試合結果を追って、場面を想定しながら満ち足りた気分になります。

熱心なファンには邪道と思われるかもしてませんが、私にとってはささやかな、
野球シーズン中の喜びです。

2015年3月25日水曜日

漱石「三四郎」新聞連載を読み終えて

2015年3月23日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第百十七回)で、連載が終了しました。

片や明治、片や昭和と時代は違えど、私自身の四十年以上前の大学
入学時のわくわくした気持ち、戸惑いを思い返して、何か温かい、しかし
はらはらした気分で連載をを追いました。

しかし終わってみると、あっけなく幕を閉じてしまったような、一抹の
さみしさが残りました。

さみしさと言えば、三四郎が美禰子に失恋したということも、私の沈んだ
気分の余韻を助長しているのでしょう。

私は、恋愛小説、青春小説というと、相対的にハッピーエンドの顛末
よりも、失恋で終わるものの方が、性に合うように思います。

ハッピーエンドは描かれなくとも、以降の展開はあらかじめ規定されて
しまうけれども、失恋ものには色々な広がりの可能性があり、また
失恋という現実が、主人公を内省へと導く契機となり易いと考える
からです。あるいは、私自身の青春が、あまりぱっとしたものではなかった
ので、ついつい自分に引き付けて、さもありなんと考えるのかも
しれませんが・・・

いずれにせよ「三四郎」は、在りし日の私をもう一度振り返る切っ掛けと
なりました。還暦をまじかに控え、貴重な読書体験だったと思います。

2015年3月22日日曜日

大江健三郎著「同時代ゲーム」を読んで

四国の山深くに存在するという、架空の「村=国家=小宇宙」に
例えられる共同体の来歴を、その土地の神主の息子が双子の妹に語る
壮大な叙事詩的小説です。

正直読み終えて、どれだけ全体の意味を把握出来たか心もとないの
ですが、理解の手掛かりになりそうな断片から論を進めると、まずこの
共同体の創始者たる「壊す人」のイメージに至ります。

彼は創建者たち共々武士社会を追放されて、海に向かうべきところ川を
遡行し、人跡いまだかつてない臭気みなぎる山奥の湿原地に到達して、
下界との境界をなす大岩塊と黒く硬い土の塊を自ら爆破して取り除く
ことによって、この共同体の開拓者となるのですが、ここから命名された
「壊す人」という存在は、正に共同体全体のイメージと同化し、彼の影響を
色濃く受けた後の世代の指導者も、それぞれの時代の日本の社会を
支配する体制に、ことごとく反逆するという点において、創造的革新に
よって生み出された、原始社会的なユートピアの価値観を守り抜く、強固な
意志と化していると受け取ることが出来ると、感じられるのです。

つまり著者は、封建的な政治体制の延長としての、我が国の明治以降の
上からの近代化の中で、様々に露呈した軋轢と矛盾に、庶民の側から唯一
対抗しうる手段として、この「村=国家=小宇宙」の共同体を提示していると、
私には思われるのです。

さて本書に登場する夥しい特異なエピソードの中で、私に一番深い印象を
残したのは、進駐軍払下げのバッテリーで一躍人気者になった少年の
物語で、彼が感電死した後、その母が銃を乱射して非業の死を遂げる話の
顛末は、哀切でしかも美しく、人生の非合理を象徴的に示す点において、
宮沢賢治の物語にも比肩する詩情を醸し出していると感じました。

2015年3月19日木曜日

漱石「三四郎」の中の、見舞いに来たよし子と三四郎の会話部分について

2015年3月19日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第百十五回)に、与次郎に言われて三四郎の病気見舞いに訪れた
よし子が、三四郎と交わす以下の会話の記述があります。

 「ええ。出来たの」といった。
大きな黒い目が、枕に着いた三四郎の顔の上に落ちている。三四郎は
下から、よし子の蒼白い額を見上げた。始めてこの女に病院で逢った
昔を思い出した。今でも物憂げに見える。同時に快活である。頼に
なるべき凡ての慰藉を三四郎の枕の上に齎して来た。
 「蜜柑を剝いて上げましょうか」
女は青い葉の間から、果物を取り出した。渇いた人は、香に迸しる
甘い露を、したたかに飲んだ。
 「美味しいでしょう。美禰子さんの御見舞よ」

何とも言えぬ情緒とニュアンスがあります。その感じはどこから来ている
のかと考えてみると、会話の間の二人の様子、感情の説明の部分に、
いい意味での省略、含みがあるのだと気づきました。

例えば、ー頼になるべき凡ての慰藉を三四郎の枕の上に齎して来た。ー
という部分、三四郎が心地よく感じている様子は伝わって来ますが、
よし子のどんな振る舞い、雰囲気が具体的に三四郎を和ませて
いるのかは、記されていません。しかしそのためにかえって、読者は
その場に対する想像を膨らませることが出来るのです。

同様に、-乾いた人は、香に迸しる甘い露を、したたかに飲んだ。-
という部分。よし子が蜜柑を剝く描写は省略されていますが、そのことに
よってかえって、二人の間に流れる穏やかな時間が醸し出されています。

何気ないようで、うまい表現だと、つくづく感じました。

2015年3月14日土曜日

石井裕也監督 映画「バンクーバーの朝日」を観て

第二次世界大戦勃発までの四半世紀、実際にカナダのバンクーバーに
存在した日系人野球チーム「バンクーバー朝日軍」を題材にした映画です。

このチームは、カナダの移民社会と野球文化への貢献が認められて、
2003年カナダ野球殿堂入りを果たしましたが、その背後には、日系カナダ
移民の苦難の歴史が隠されていました。ストーリーも感動的ですが、その
語るところには深く、重い意味があるように感じられます。

まず第二次大戦以前には、多くの日本人が新天地を求めて、世界の
各地域に移民して行ったという事実です。これは彼らが国内での暮らしに
窮し、少しでもましな生活を求めて、国外に飛び出して行ったことを
現わしています。

戦前の日本が、まだ経済的には豊かではなかったこと、そのことを理由に
移民する人も多く存在したという現実を、高度経済成長後の現代日本社会に
生きる私たちが、想像することは難しいでしょう。

また移住者たちが最初現地で最下層に置かれ、過酷な労働に従事しながら
どうにか社会に定着したとしても、戦争という国際関係の激変によって、
一気に敵性国民として全ての財産、権利をはく奪された事実は、彼らの
地位がいかに不安定であったかを示します。

このことも、現代の私たちには実感しにくいのですが、経済的に発展した
日本に、今度は逆にブラジルなどから日系人が働く場を求めて来日すると
いうことや、欧米に移住するイスラム教徒の住民の存在が社会問題化
しているという事象は、富の国家間格差がなお、深刻な現実であることを
現わしています。

次に野球というスポーツに目を移すと、抑圧的な社会環境で朝日軍の
メンバーが、このスポーツに純粋に生きる喜びを見出していたことは、
手に取るように伝わって来ます。

また彼らがカナダ人チームとの体格差を克服するために、日本人の俊敏で
小回りが利く特性を利用して、バントと盗塁を駆使する「頭脳野球」で対等に
戦ったことも、今日の国際試合における日本野球の原点、あるいはもっと
広い視野に立って、社会活動において人間が自らの長所を生かすために
考え、工夫を凝らすという意味においても、朝日軍の足跡は、私たちに深い
思考を促してくれると感じました。

2015年3月12日木曜日

漱石「三四郎」の中の、広田先生の夢について

2015年3月10日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「三四郎」106年ぶり連載
(第百八回)に、広田先生が昼寝をしている時に見た、二十年ばかり
前に会った年の頃十二、三才の綺麗な女と再会した夢について、
三四郎に語る次の記述があります。

「突然その女に逢った。行き逢ったのではない。向は凝と立っていた。
見ると、昔の通りの顔をしている。昔の通りの服装をしている。髪も昔の
髪である。黒子も無論あった。つまり二十年前見た時と少しも変らない
十二、三の女である。僕がその女に、あなたは少しも変らないというと、
その女は僕に大変年を御取りなすったという。次に僕が、あなたは
どうして、そう変らずにいるのかと聞くと、この顔の年、この服装の月、
この髪の日が一番好きだから、こうしているという。それは何時の事か
と聞くと、二十年前、あなたに御目にかかった時だという。それなら僕は
何故こう年を取ったんだろうと、自分で不思議がると、女が、あなたは、
その時よりも、もっと美しい方へ方へと御移りなさりたがるからだと教えて
くれた。その時僕が女に、あなたは画だというと、女が僕に、あなたは
詩だといった。」

ロマンチックな文章です。画は変わらないもの、心に焼き付いた印象の
象徴であり、詩は移り行く感興の象徴でしょうか?もちろん夢という
非現実の中での出来事ですが、その瞬間の美しさに充足するものは
永遠の美しい姿をとどめ置き、よりさらに美しいものを追い求めるものは
その代償として、自らは老いさらばえて行く。何か欲望といったものの
本質を言い表しているようにも感じられます。

2015年3月7日土曜日

京都高島屋グランドホール 「デザイナー芹沢銈介の世界展」を観て

私たちの店が色々な種類と幅の白生地を商っている関係上、お客さまに
型絵染を制作している方も多く、その作品を目にすることもよくあります。
従って、本展第1部「多彩な造形表現」で、この染色技法の人間国宝
芹沢銈介の作品群を目の当たりにした時、まず湧き起って来た感情は、
一種の懐かしさでした。

つまり芹沢の仕事が、彼以降の型絵染の流布、発展に多大な影響を
及ぼし、多くの制作者たちが、その多寡のほどは別にしても、少なからず
彼の薫陶を受けてきたことを、今さらながら確認出来たからです。

そのように考えてみると、彼の作品が当時において、著しく革新的であった
ことに改めて気づかされます。

民芸運動に傾倒し、その志向はあくまで日用の美であったため、作品に
奇をてらうあざとさ、ことさら目立とうとする姿勢は感じられませんが、
その作品の魅力は明らかに、それまで存在しなかった美の一つの形を
提示したことにありました。

ではそれはどのようなものであったのか、ということに思いを巡らせる
ためには、本展の第2部「世界各国の美術・工芸品」が、明確な示唆を
与えてくれます。

芹沢は生涯に、世界各地の多くの美術、工芸品を蒐集しました。それらを
観てみると、彼が名もなき庶民の日常生活や宗教儀式などに、実際に
使用されていたものの中に潜む美しさや味わいを、確かな目で見出して
いたことが分かります。

つまり芹沢は、自らが愛して止まぬ、世界各地の人類の長い生活の営みの
歴史に通底する、日常の暮らしの潤いとしての美のエッセンスを抽出し、
彼の生きた時代と場所の要請に答える形で統合し、提示してみせたのでは
ないか?彼が私たちの前に、分かりやすい姿で示してくれた美の形が、
誰の心の中にも潜在的に存在するものの具現化であったゆえに、観る者は
深く心打たれ、彼の表した美の基準は、以降確固としたものとして、我々の
心に刻みつけられたのでしょう。

2015年3月4日水曜日

龍池町つくり委員会 14

3月3日に、第32回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

今回の委員会の主な議題は、平成27年度の事業計画案の作成で、まず
各委員とオブザーバー参加の学生さんが、それぞれのアイデアをポストイット
5枚に書いて、会議室正面のボードに貼られた、年間各月の仕切りを
書き込んだ模造紙に月別に貼り付けながら、自らの計画案を説明しました。

皆の案を模造紙に貼り付け終えてから全員で協議して、以下の大まかな
年間計画案が出来ました。

4月、花見を兼ねた大原学舎での茶話会、6月、NHK関連の催し、9月、
再び大原学舎で茶話会、11月、スタンプラリー、1月着物茶話会(併せて
女性が興味を持つような催しも考える)

また、7月には祇園祭と関連した企画、10月には学区の運動会の時を
利用して、広報活動を行うことも考えています。

委員会も年を重ね、継続的な催し、新規の企画と、計画も多彩になって
来ました。少しづつでも、住民間の交流が盛んになり、風通しの良い
龍池学区となればと、切に願っています。

前回に委員会で決定された、学区の自治連合会の活動や、町内会との
関係等を説明する新住民用のパンフレットも、5月を目途に制作を急ぐ
ことになりました。

2015年3月1日日曜日

職人の心を持った商売人でありたい

時々私たちの仕事が、和装業界の中でどのような位置づけになるのか、
考えてみることがあります。

白生地屋というと一般的には、着物用の反物の白生地を問屋や呉服店、
悉皆業の方に販売する商売になります。しかし私たちの店は、以前にも
記したように、広幅の白生地も扱うという性格上、切売も行っているので、
業界を超えたさらに多様なお客さまからの注文があります。

また最近は小口の誂え染めも承っているので、一般消費者のお客さまも
ご来店頂きます。つまり、白生地の卸、切売のみならず、呉服悉皆、
小売業の役割もいくらかは、になっているのです。

そのような商売の形態から、業界内で幅広い職種の方とお付き合いする
ことになります。白生地産地の織屋さんや産地問屋の方が折々に挨拶に
こられます。承った誂え染めを依頼するために、分業になっている
それぞれの職人さんのところにも、こまめに訪れます。

一方お客さまとして、呉服問屋、呉服店、悉皆や、工芸家の方々と顔を
合わせますし、店頭で消費者の方に直接お目にもかかります。

色々な方とお話をしていると、決してよそごとではありませんが、まず
業界の窮状が見えてきます。売上減少、後継者不足、業界の縮小、
商品品種の極端な減少・・・。他方、呉服好きの消費者の方からは、
着物もまだ捨てたものではないと、反対に勇気をいただくこともあります。

このように私たちの商売も、以前に比べて随分多岐に渡るようになって
来ましたが、そのような状況においても、私は和装という日本の文化を
何とか絶やさないようにしたいという思いを、常に持ち続けたいと
考えています。

そのために私に出来ることは、取り扱う商品を単に右から左に手渡す
のではなく、造り手と受け手の間に立って、両者の良き仲立ちをする。
さしずめ、造り手の心に適う商品を、お客さまに送り届ける。つまり、
職人の心を持った商売人でありたいと、思っています。