2014年7月31日木曜日

漱石「こころ」における、先生の運命的な決断について

7月31日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、
先生の遺書(72)に以下の記述があります。

「自白すると、私は自分でその男を宅へ引張って来たのです。無論
奥さんの許諾も必要ですから、私は最初何もかも隠さず打ち明けて、
奥さんに頼んだのです。ところが奥さんは止せといいました。私には
連れて来なければ済まない事情が充分あるのに、止せという奥さんの
方には、筋の立った理屈はまるでなかったのです。だから私は私の
善いと思う所を強いて断行してしまいました。」

先生が後に、自らの運命に重大な影を落とす決断をするところです。

物事を選択する時、私たちは往々に明確な理由を求めます。その方が
決断しやすいのは、確かです。ところがことは一概に、そう単純に
進んで行くものでもないのです。

えてして、理由のあることが思うように運ばず、意外な方向に進む
ことがあります。そのような場合後から振り返って、理屈よりも予感や
雰囲気、あるいは経験豊かな人のアドバイスに従っておけばよかった
ということが、えてしてあります。

私も漱石のこの文章を読んで、先生ほど衝撃的なな結果は招かなかった
にしても、若い時には幾度か、こういう経験をしたと思い返しました。

漱石には、私たち人間の泣き笑いを誘う性を見事に描いていると、感じ
させる瞬間があります。

2014年7月29日火曜日

野球観戦の楽しみ

7月27日(日)、第96回 全国高校野球選手権は各地で地方大会の
決勝戦があり、熱戦が繰り広げられましたが、特に石川県大会では、
8点を追いかける星陵高校が9回裏、一挙9点を奪って逆転サトナラ
勝ちするという、奇跡的なドラマがありました。

その記事を翌日、新聞のスポーツ欄で読んで、野球を観る楽しさ
について考えました。

私は子供の頃から阪神タイガースファンで、時間のある時には、
もっぱらテレビ観戦で応援しています。

長いシーズンを決まった相手と繰り返し対戦するプロ野球は、特に
そうでしょうが、野球の試合は相手を想定して戦う情報戦で、また
確率を重視するゲームです。

不動のレギュラーは別として、打率、防御率などを参考にして、
対戦相手との相性で選手起用を決定し、自球団の戦力を最大限
有効に使う試合運びを心がけます。

それだけ厳密に数字が支配する世界なのですが、鍛え上げられた
選手がプレーするといっても、なんといっても、生身の人間が
することですから、期待通りの働きが出来なかったり、時には
期待以上の結果が出ることもあります。

また、団体スポーツでもあるので、チームの雰囲気、試合の流れに
よって、予想外の結果を生むことがあります。

この星陵高校の逆転サヨナラ勝ちも、合理性を追求しながら人間的な
ものが時に奇跡を生む、野球というゲームの醍醐味を体現している
のでしょう。

2014年7月25日金曜日

漱石「こころ」における純愛考

7月25日(金)付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(68)に、「もし愛という不可思議なものに両端があって、
その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性慾が動いている
とすれば、私の愛はたしかにその高い極点を捕まえたものです。
私はもとより人間として肉を離れる事の出来ない身体でした。けれども
御嬢さんを見る私の眼や、御嬢さんを考える私の心は、全く肉の
臭いを帯びていませんでした。」という記述があります。

この箇所を読んで、純愛ということについて考えました。

確かに先生の御嬢さんへの恋情は、一見清らかなものに感じられます。
また、恋愛結婚が一般的ではなかった当時、恋愛感情というものは、
ある意味後ろめたいものであったかもしれません。

しかし私たちの現代社会に、このシチュエーションを当てはめてみると
どうでしょうか。私には先生のいわゆる愛の高い極点は、一人よがりの
ものに感じられます。

先生がいくら心の中で御嬢さんを思っていても、肝心の相手にその
思いは伝わっていたでしょうか。私の感じ方では、先生は自分の恋愛に
一方的に酔いしれていないで、少なくともその意思を何らかの方法で
御嬢さんに伝えるべきだったと思います。

その時点で初めて、純愛は成り立つのではないでしょうか。それゆえ
先生の純愛に、私は純愛未満のじれったさを感じました。

2014年7月24日木曜日

祇園祭リポート 3

後祭りの宵山に行って来ました。

後祭りの宵山には露店も出ず、歩行者天国も予定されなかったので、
当初、前祭りのそれのように賑わうか懸念されていましたが、ふたを
開けてみたら大勢の人出で、幸いにも盛況でした。

新町通りをずっと下がって行きましたが、露店の煩雑な明かりがない
だけに、北観音山の駒形提灯の光の集まりがはんなりと、雅やかに
浮かび上がって、町屋からもれる灯りとも呼応して、古都の祭りらしい
風情を醸し出していました。

奏でられる祇園ばやしも、心なしかゆったりと聞こえます。

鳴り物入り、150年ぶり復活の大船鉾はさすがにすごい人だかりで、
なかなか近寄ることが出来ません。大船鉾と墨書された提灯を
目当てに、たくさんの人にもまれながら、少しづつそばに近付いて
行きました。

目の前にした大船鉾は白木も真新しく、船を模した独特の曲線が
優美で、鉾の巨大さ、力強さとその造形の優雅さが絶妙に
溶け合って、闇を背景に神々しい姿を横たえていました。


2014年7月21日月曜日

京都市美術館「バルテュス展」を観て

「20世紀最後の巨匠」と呼ばれたバルテュスの、没後初の回顧展
です。

私がバルテュスの作品を観るのは、30年前にやはり、この美術館で
開催された、大規模な彼の展覧会以来で、当時その独特の
作品世界にすっかり魅了されましたが、それが何に発するものか
判然としませんでした。それで今回は、その秘密をさぐってみたい
という思いもありました。

そのような目的意識をもって出品作を順に追っていくと、まず彼は、
様々な絵画の表現方法が模索された20世紀前半のパリにあって、
どうして一見オーソドックスに見える具象という表現方法を選択した
のか、という問いに行きつきます。

つまり自ら描きたいものを、もっとも上手く表現出来る方法を
探究したに違いない周到なこの画家が、この表現方法を確立した
ということは、その絵画は従来の意味での具象ではない、という
ことです。

バルテュスの具象が、どのようなものを目指したものであるかという
ことについては、彼が一時、シュールレアリスムの画家グループに
近付いたという事実が、ヒントを提供します。

彼の具象絵画は、目に見えない情緒や雰囲気までを描き出すことを
指向し、それでいて、現実とは完全に離れてしまう絵空事に
なることは、回避しようとしたのではないでしょうか。

その物事の”あわい”を描き出そうとする態度は、彼の絵画の主題にも
見受けられます。

バルテュスの描く少女は、子供から大人になる”あわい”の、中空に
浮かび上がったかのような、不安定ではかない魅力の一瞬を捕えます。

彼の好むネコは、人間界を皮肉を込めて斜めから見て超然としている
ような、それでいて妙に人間臭くもあります。

もちろんバルテュスの作品には、ヨーロッパの長い絵画の伝統を踏襲した
重厚なたたずまいが、基調低音として存在することを忘れてはなりません。

しかしその魅力の核心は、私たちが日常感じ取ることが出来ない、現実の
”あわい”に宿る美を描き出したことにあると、私には推測されます。

2014年7月18日金曜日

祇園祭りリポート 2

前祭りの山鉾巡行が行われた7月17日、夕食に京料理堺万から、
鱧の落とし、鱧寿司の仕出し料理を取って祝いました。

鱧料理は、祇園祭りにつきもので、内陸に位置し、かつては
新鮮な魚がなかなか手に入らなっか京都で、生命力が強く、
なおかつ、この時期にちょうど脂が乗って美味しい鱧は、祭りに
欠かせない食材であったといいます。

絶妙の骨切りを施して、さっと湯に通した鱧の落としは、ほんのり
白くふっくらとした外見からも、一見あっさりとしているような印象を
受けますが、ワサビと刺身醤油をからませて口に含むと、鱧の
濃厚な脂がワサビの香りと刺激、醤油の辛みとコクに引き立て
られて、絶妙の旨みが口の中に広がります。

またこの鱧の落としを梅肉たれで食べると、今度は鱧の脂が
梅肉の酸味にほどよく中和されて、さわやかな食感とともに、
鱧の身の適度な歯ごたえを楽しむことが出来ます。

鱧寿司は、たれを十分にしみこませて香ばしく焼いた鱧の身と、
山椒の香り、引き締まった酢飯が一体となって、重厚な味わいを
堪能出来ます。
やはり祇園祭りには、鱧料理が似合います。

2014年7月16日水曜日

泉屋博古館「ちょっとパリまで、ず~っとパリまで」を観て

明治期以降、国の近代化に呼応して、多くの洋画家が本場の絵画を
学ぶため、ヨーロッパに留学しました。住友財閥を築いた住友家は
これらの画家たちを支援し、その作品を購入、住友グループ各社で
所蔵して今日に至っているといいます。

本展は住友グループ各社収蔵の作品から、十九世紀末から
二十世紀前半にパリに留学し、帰国後日本の洋画を発展させ、
あるいは現地に滞在して、異邦人画家として活躍した画家の
作品に絞って展観する催しです。

ちょうど先日、黒田清輝展を観に行った後なので、この展覧会も
親近感のあるものに感じられました。本展でも、黒田の二作品が
展覧されています。

黒田展で、この画家の初期からの研鑽、画境の成熟を観て行く
ことが出来たのに対して、この展覧会では、ちょうど初期作品、
後期作品が並べられていたこともあって、画家を見守る支援者の
視線が感じられたというのは、うがった見方でしょうか?

いずれにせよ、違う切り口で同じ画家の作品を観るという、貴重な
体験が出来たと感じました。

全体を観終えて、公立の美術館の大規模な展覧会が、たとえて
言うなら、正式の舞踏会のように、襟をただして観ることを求められる
ものであるならば、この美術展は私的サロンの集まりというように、
親密で和やかな気分を漂わせる、くつろいだ雰囲気の展観であると
感じられました。

2014年7月14日月曜日

祇園祭リポート 1

今年も、祇園祭が始まりました。

今年の祇園祭は、四十九年ぶりに山鉾巡行が前祭りと後祭りの
二回に分かれるなど、話題も豊富です。

実は、私の住まいは、境界線ぎりぎりですが、八坂神社の氏子の
地域に当たります。何時もは端っこ過ぎて、あまり祇園祭の
実感がわきませんが、これから数回、身近ではありながら、
ちょっと離れたところから見た、祇園祭のリポートをお届けします。

今年は前述のように、山鉾巡行が7月17日の前祭りと7月24日の
後祭りに分かれて行われます。

山鉾巡行は本来、八坂神社のご神体を乗せた神輿が、神社から
御旅所に向かう17日の神幸祭と、御旅所から神社に戻る24日の
還幸祭の先駆けとして行われるものでした。

従って、17日と24日の二回行われるのが本来の姿ですが、
観光事業の振興という意味もあって、この四十八年間、一回に
まとめて行われていたのです。

しかし今年は、防災上の理由や、祭りを本来の姿に戻そうという
声も上がって、従来の二回巡行に立ち返ることになったのです。

7月13日、私は御池通りを下がったところから、新町通りを南に
望みました。以前ですと北観音山、南観音山が並んで見える
ところですが、今年は二つの山が後祭りに回ったので、四条通りに
近い放下鉾の雄姿が遥かにそびえていました。

いつもより、悠揚迫らず、落ち着いた雰囲気を感じました。

2014年7月9日水曜日

山田風太郎著「同日同刻ー太平洋戦争開戦の一日と終戦の十五日」を読んで

作家山田風太郎が、太平洋戦争開戦の一日、昭和16年12月8日と
終戦までの十五日、昭和20年8月1日から15日までの敵味方の
指導者、軍人、民衆の姿を膨大な記録の中から時系列に沿って
再現、個々の事象の総体から、この未曾有の戦争はいかなる
ものであり、その渦中に人間は、どのように生きたかを明らかに
しようと試みた作品です。

本作品は、開戦時、終戦時の人々の姿をただ羅列するものですが、
作者の取捨選択、並べる順序の決定の妙もあって、当時の人間の
息吹が生々しく伝わり、時代の様相が重層的、立体的に浮かび
上がります。

開戦時の記録で私の目を引いたのは、多くの日本国民が熱狂する
姿で、世相を反映する文学作家たちの述懐も、一部反戦的な
考え方を示すものはあっても、多数は開戦に高揚していたという
事実です。

これらの記録から見えてくるのは、アメリカとの戦争突入による、
我が国の鬱屈した状態からの一気の解放の気分です。最後は
有無を言わず、戦争になだれ込んだ様子がうかがえます。

終戦前の十五日間は、日本が最早弓おれ矢つき、米軍の
継続される情け容赦ない攻撃、ソ連の突如の参戦という状況の
中で、軍幹部の一部が狂気じみた徹底抗戦を唱え、クーデターが
画策され、一方満州では関東軍が住民を置き去りにして撤退、
民間人に多数の犠牲者が出ます。

満蒙開拓民の自決、原爆、空襲の被害の惨状には、心が痛みます。

国会で憲法解釈の変更による、集団的自衛権の行使が議題に
登る今日、非常事態に際して人は、往々にして判断を誤るものである
ということを、重々肝に銘ずべきでしょう。

2014年7月8日火曜日

我が家の梅だより 2

知らないうちに、梅の実が大きくなりました。

私は今まで、「梅雨」という言葉が、梅の実が熟すころという
意味をも、持つことを知りませんでした。

「梅雨」は、じめじめとして、カビがはえるようなうっとうしい
季節を表す言葉、とだけ考えていたのです。

しかし、この梅の実が熟すころという意味を知ると、すっかり
イメージが変わります。

蒸し暑い天候も、降り続く雨も、木々が緑を育み、自然の
恵みを用意するために不可欠のものです。

現に、ここのところの雨も、眼前の梅の実を太らせています。

他方、「梅雨」は例年、各地に豪雨被害の爪跡を残すという
厳しい現実もあります。

折しも、台風襲来の危険が迫り、激しい雨が懸念されます。

願わくば台風が予想進路をそれて、もうしばらく穏やかな雨が
続いたのち、カラッとした夏空を拝みたいものです。





2014年7月6日日曜日

染屋の林さん、お疲れさまでした。

6月いっぱいで、浸染職人の林弘さんが、キャリアを終えられました。

私たちが、林さんに仕事をお願いするようになって、15年ほどに
なります。

林さんは、この道60年。色合わせが得意で、ずいぶん助けて頂き
ました。

林さんにお願いする以前は、誂え染めというと、私の知る限り、
多少色が合わないのは当たり前で、それが当然と思っていま
した。

ちょうど、林さんに仕事を依頼するようになってしばらくして、
私たちの店でも次第に、誂え染めの仕事が増えていき、また
帯揚一枚から誂え染めが出来ないかという、要望も受けるように
なりました。

そこで林さんにお願いしたところ、こころよく引き受けて頂き、
微妙な帯揚の一枚一枚の色のトーンの違いも、ほぼ忠実に再現
することが出来て、多くのお客さまに満足していただけることと
なったのです。

今回、これを機会に、初めて仕事場に入れていただき、染色の
工程を見学しましたが、水の張られた染色槽に色見本に合わせて、
耳かき一杯ほどの染料を調合して入れていき、染める生地を浸し、
引上げ、一部を乾かして見本と合わせ、また染色槽に染料を入れ、
染めて色合わせという工程を5回ほど繰り返す、勘と根気の
作業でした。

幸い、新しい染屋さんも見つかって、従来と変わらず、誂え染めを
承ることが出来ますが、これまで多くのお客さまに、私たちの
仕事を支持して頂いたのは、間違いなく、林さんのお蔭だと思って
います。

林さん、有難うございました。

2014年7月4日金曜日

龍池町つくり委員会 6

7月1日に、第24回龍池町つくり委員会が開催されました。

9月の大原でのバーベキュー、11月の京都外国語大学との提携
プログラムである、地域の町歩き会の日程等が詰まってきました。

9月28日(日)、第2回龍池茶話会in大原として、大原郊外学舎で
大原周辺の散策、歴史風土を知る集い、そしてバーベキュー
交換会を催す予定です。その準備としては、大原の語り部に
なっていただく、地元の方を探すことも提案されました。

11月9日(日)、京都外大の学生さん主導で、「写真で探す龍池の
街並み」という、地域の児童生徒対象の町歩きイベントを、
マンガミュージアムと龍池学区で行う予定です。

それらを地域に告知する広報誌も、「たついけ町つくり」と
ネーミングされて、だんだん具体化してきました。

あとはこれらのイベントで、どれくらい参加者を集めることが
出来て、盛り上がることが出来るか、ということでしょう。

2014年7月2日水曜日

漱石「こころ」の中の、状況による人の言葉と心の機微

朝日新聞2014年7月2日付け朝刊、漱石「こころ」先生の遺書52回の中の
「母は父のために箒で背中をどやされた時の事などを話した。今まで
何遍もそれを聞かされた私と兄は、何時もとはまるで違った気分で、
母の言葉を父の記念のように耳へ受け入れた。」という文章に感銘を
受けました。

私の経験からも、年配の女性が、良きにつけ悪しきにつけ、永年連れ添った
夫が過去に自分に対して示した態度、その行為を繰り返し身内に語る
ことがあります。

それは一種、親愛の情を示すことなのしょうが、聞かされている方は
「またか!」と、少なからずうんざりします。

しかし、「こころ」の中の私と兄の場合のように、当の父が死を間近に
しているような特別な時には、その受け取り方も違います。

母の口癖は、息子たちを感傷的にさせ、切なく、懐かしい気分に浸らせる
のです。

人は日々、日常の繰り返しの中で、同じ意味の言葉を、状況に応じた
様々なニュアンスや抑揚を含んだ話し言葉として語ります。

時々に受け取り手の感じ方も違うということが、人のコミニケーションを
より豊かにしているのでしょう。