2014年8月31日日曜日

高校の同窓会に参加して

私の出身高校の、卒業40周年に当たる第10回同窓会に参加しました。

この同窓会は、私たちが卒業した1974年にちなんで、「1974会」と
称しているのですが、前回までは3年ごとに開催されていたのを、
今回担当の幹事の発案で、初めて2年目で開催することになりました。

それで当初は、メンバーの集まりが懸念されたのですが、総数350人
余りで140人ほどが参加して、盛況な会となりました。

まず改めて気づかされたのは、メンバーの内16人がすでに亡くなって
いるという事実で、その中には親しかった友人も含まれています。

開会後最初に、これらの人々に参会者全員で黙とうを捧げましたが、
月日の経過を否応なしに痛感させられました。

私の出身校は中高一貫の学校で、とかく華やかな雰囲気もあり、
高校時代は内気で目立たない存在であった私は、その延長として
今までの同窓会では何か落ち着かないところもあったのですが、
今回は素直に楽しく感じられました。

それは、それぞれのメンバーが人生の後半を迎え、例えば
勤めている人もそろそろ退職後のことを考え、私のような自営業者、
あるいは主婦も、人生の区切りとして来し方を振り返るというように、
ただ前に進むだけではない、一種の余裕のようなものが出てきた
からかもしれません。

私自身も今回は、構えることなく自分の来し方を同窓生に語ることが
出来たように思いました。

2年後、還暦の同窓会がまた楽しみになりました。

2014年8月29日金曜日

鈴木大拙著「禅とは何か」を読んで

欧米に広く仏教、禅思想を紹介した、我が国近代を代表する
仏教思想家、鈴木大拙の講演記録をまとめた禅入門書です。

私自身、仏教の教えは日常のものという意識があって、ことさら
その教義に興味がある訳ではありませんが、禅というとなぜか
触手が動きます。

これは禅宗が私にとって、信仰というよりも修行、悟りといった
心身鍛錬による思想的営為というイメージが強いからで、大拙の
禅哲学書が欧米社会で大きな反響を呼んだのも、禅に不可欠の
ものとしてそのような側面があるからだと思われます。

さて、そのような認識を持つ私が本書を読むと、冒頭から私の
予想は裏切られて、禅が自らの修練と覚醒だけを求めるものでは
なく、得た正覚を広く大衆に広めることを目的とするものである
ことを知りました。

つまり、浄土宗、浄土真宗が念仏によって、仏の道に近づくもので
あるならば、禅宗は悟りを開くことによって、仏の道を体得する
ものであるといいます。その語るところを知ると、禅がことさら
特別ではなく、身近なものに感じられて来ました。

本書が刊行されてから60年余りの時が経過し、その間我が国では
医療、科学技術の目覚ましい発達によって死の概念は希薄化し、
さらに物質的豊かさの高まりによって、精神的、宗教的な価値が
急速に力を失う中で、今なお禅僧が一般向けに語る著作が版を
重ね、禅寺での座禅体験が人気を保つのは、現代人の宗教を
求める心にとって、禅というアプローチが抵抗感少なく、受け入れ
られ易いことを示しているのではないでしょうか。

禅というものを、国際的に通用する哲学的思想として語った
鈴木大拙は、そのような未来を予見していたのかもしれません。

2014年8月27日水曜日

漱石「こころ」の中の、先生の恋愛観

8月25日(月)付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(88)に、先生が自身の恋愛観について語る、以下の
記述があります。

「こういう嫉妬は愛の半面じゃないでしょうか。私は結婚してから、
この感情がだんだん薄らいで行くのを自覚しました。その代わり
愛情の方も決して元のように猛烈ではないのです。」

「こっちでいくら思っても、向こうが内心他の人に愛の眼を注いで
いるならば、私はそんな女と一所になるのは厭なのです。
世の中では否応なしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがって
いる人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした
男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、
当時の私は考えていたのです。」

先生は一見、相手の立場を尊重しているように見えます。しかし
よく考えてみると、以上の文章は先生の強烈な自己愛を示して
いるのではないでしょうか。

先生は自らが相手を愛すると同等に、自分を愛してくれる女としか
結婚したくないと語ります。

私たちの今生きる現代の感覚からすると、それは自然なことに
思われます。しかし、先生の生きた明治という時代の慣習に
照らしてみるとどうでしょうか?

一般的に女性が男性に従属するという習わしの当時にあって、
女性からの先だった意思表示を求めるということは、先生の
傲慢と私には感じられるのです。

しかし反面、明治を生きた漱石がこの小説を書いたと思い至ると、
このような恋愛観を持ちえた人が当時いったい、どれだけ存在
したのかと、はなはだ心もとなくなります。

先生の悩みは、一人未来を生きる悩みだったのかも知れません。

2014年8月24日日曜日

地蔵盆

私たちの町内では、8月23日に地蔵盆をおこないました。

この行事は一般的に、お盆明けの24日前後に、町内のお地蔵さんを
祀るもので、石造りのお地蔵さんを飾り付けた祭壇に安置し、僧侶に
法要を営んでもらい、その前にしつらえたご座の上で、子供たちを
遊ばせます。

今年は、回り持ちの町内の役員の当番に当たっているので、私も
地蔵盆の世話役を務めました。

私たちのの町内では朝、壬生寺に預かってもらっているお地蔵さんを
有志でお参りし、寺の住職に読経をして頂きました。

町内に引き返して地蔵菩薩を描いた屏風を中心にお飾りをし、
ご座を延べ、子供たちの名前の入った提灯を飾り付けて準備完了
です。

子供には、スイカ割り、福引、ゲーム等楽しいプログラムが待って
います。

私たちの町内にも一時はほとんど子供がいなくなって、さみしい
地蔵盆風景でしたが、最近少しずつ増えてきて、また賑わいが
感じられるのは有難いことです。

自分の子供時代を振り返っても、地蔵盆の独特の華やいだ雰囲気は
忘れられない思い出となっています。



2014年8月20日水曜日

漱石「こころ」の中の、お嬢さんを巡る先生とKの心の葛藤

夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、朝日新聞8月18日(月)付け朝刊
先生の遺書(83)に、Kにお嬢さんへの思いをなかなか打ち明け
られない先生のためらいを記する、次の文章があります。

「貴方がたから見て笑止千万な事もその時の私には実際大困難だった
のです。私は旅先でも宅にいた時と同じように卑怯でした。私は終始
機会を捕える気でKを観察していながら、変に高踏的な彼の態度を
どうする事も出来なかったのです。」

「或時はあまりにKの様子が強くて高いので、私はかえって安心した
事もあります。そうして自分の疑いを腹の中で後悔すると共に、同じ
腹の中で、Kに詫びました。詫びながら自分が非常に下等な人間の
ように見えて、急に厭な心持になるのです。」

前回読んだ時には、これらの記述にもずい分じれったさを感じました。
しかし今回改めて読んでいると、ふと、遠い学生時代の自分の体験が
よみがえって来ました。

私は大学生の時に旅先で知り合った、遠方に住む女性と文通を
続けていて、久々に彼女に会いに行くのに、ドライブを兼ねて友人を
同行しました。

実際に会うまでは、そんなことは露ほども考えていなかったのですが、
彼女と彼女の女友達、私と友人の四人で話したり、彼女の地元の名所を
めぐっているうちに、彼女と友人がいい雰囲気に思えて来たのです。

当時私は、彼女に好意を持っていました。しかしその友人にはっきりと
そのことを伝えたわけではありません。でも彼は当然分かっていると
思っていました。

私は彼女に対しても疑心暗鬼になり、彼女に冷たく当たりました。別れる
時にも、彼女の親切に報いる態度を示しませんでした。

以降彼女との関係は終わり、友人に真相を質したわけでもないので、
彼女と友人の間にどんなことがあり、あるいはなかったのか、今でも
分かりません。

優れた文学は、読む人の心のひだに分け入り、忘れてしまった遠い記憶を
呼び覚ますこともあると、改めて感じました。

2014年8月17日日曜日

京都平安ホテル「大文字送り火観賞ディナー」に参加して

他府県出身の大学時代の友人たちのリクエストもあって、テニス
同好会の同窓会を兼ねて、当日参加出来る10名が京都平安ホテル
「大文字送り火観賞ディナー」に参加しました。

北海道、九州から久々にやってきた友人もいて、なかなか楽しい
集まりとなりました。

当日の京都の天候は、あいにくの荒れ模様で、昼前後には
大雨洪水警報が出て、果たして無事送り火行事が実施されるのか
危ぶまれました。

昼過ぎに鴨川の三条大橋を通りかかった時には、川の水かさが
以上に増して濁流が坂巻、普段は散策出来る河川敷も水没して、
飲食店が鴨川に並行して流れるみそそぎ川に張り出して設置
している名物の床の支柱も、あふれた鴨川の水にじかに洗われて
いる有様です。

午後も時折激しい雨が降って、懸念はふくらみました。

さて、京都平安ホテルに集合すると、午後6時よりバイキング形式の
夕食をとって、8時前に屋上にむかいます。

幸い雨もほとんどあがって、若干火の燃えあがり方が遅いようにも
感じられましたが、大の文字が無事夜空に浮かび上がりました。

続いて、御所の立ち木によって一部しか見えませんが、妙法の火が
ともされ、船形がくっきりと夜空を焦がし、大文字より少し小さい
左大文字がゆっくりとその形を現わしました。

初めて見た友人たちも満足したらしく、余韻に浸りながら会場を
後にしました。

2014年8月15日金曜日

漱石「こころ」の中の、先生と御嬢さんの恋情の機微

朝日新聞8月13日付け朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載
先生の遺書(80)の中に、御嬢さんが先生の心を試す、次のような
記述があります。

「御嬢さんも「御帰り」と座ったままで挨拶しました。私には
気の所為かその簡単な挨拶が少し硬いように聞こえました。
何処かで自然を踏み外しているような調子として、私の鼓膜に
響いたのです。」

「御嬢さんはただ笑っているのです。私はこんな時に笑う女が
嫌でした。若い女に共通な点だといえばそれまでかも知れ
ませんが、御嬢さんも下らない事に能く笑いたがる女でした。
しかし御嬢さんは私の顔色を見て、すぐ不断の表情に帰り
ました。」

「なるほど客を置いている以上、それも尤もな事だと私が
考えた時、御嬢さんは私の顔を見てまた笑い出しました。
しかし今度は奥さんに叱られてすぐ已めました。」

御嬢さんは、自分に好意を抱いているはずの先生が、なかなか
自身の意思を彼女に示さないので、先生の友人のKに気のある
そぶりを見せたり、意味ありげに笑って、先生を挑発しています。

一方先生は、気位の高さや気恥ずかしさ、自分の下宿に
一緒に住むようにKを誘った手前、御嬢さんに告白するのが
ますます困難になっていきます。

本当に窮屈で、じれったい閉塞状況のなかで、先生と御嬢さんと
Kの古風な悲劇の三角関係が、まさに形作られようとしています。

2014年8月12日火曜日

滋賀県立近代美術館「手塚治虫展」を観て

手塚治虫の展覧会というと、今までにも色々な切り口で開催されて
いますが、本展は、原画、映像、写真、資料、愛用品などから、彼の
広大な作品世界のエッセンスと作品に込められた思いを、明らかに
しようと試みるものです。

まず感銘を受けたのは、漫画家になる以前の手塚の少年期、
青年期の資料展示で、当時の居住地宝塚の豊かな自然の中で、
昆虫採集に熱中し培われた科学への興味、漫画への目覚めと
医師を目指す中での心の葛藤、戦争の惨禍に直面して人生観の
変更を余儀なくさせられた体験というような、後の彼の漫画の
ストーリー、思想の原点がすでにここに凝縮されている事実です。

また手塚は、漫画の革新という点においても、従来の枠を軽々と
飛び越えるクリエイターでした。かれの生み出したものは、後に
続く作家に多大な影響を及ぼします。

その最たるものがストーリー漫画の創造です。これは、情景説明的で
単調な記述になりがちな漫画表現に、映画を参考にした明確な
ストーリー性と、その表現を可能にするために、躍動感があり、読者の
感性にストレートに訴えかける様々な作画法を駆使して、まさに
眼前に物語が展開するような漫画作品を作り出すものです。

このストーリー漫画の誕生により、以降の漫画家は、表現の飛躍的な
広がりの可能性を獲得したのです。

手塚の漫画、アニメ作品が没後20年以上を経てなお、多くの支持を
集めるのは、彼の作品のキャラクターの魅力と、物語に込められた
思想が現代に生きる人々にも、共感を呼ぶためだと感じられます。

彼は心から自然を愛し、人間を愛した漫画家であったのだと、本展を
観て改めて思いました。

2014年8月10日日曜日

龍池町つくり委員会 7

8月5日に、第25回「龍池町つくり委員会」が開催されました。

本年度最初の龍池茶話会、第2回龍池茶話会in大原の日程が、御所南
小学校の行事の関係で、9月28日(日)から9月23日(火)秋分の日に
変更されました。

今回は恒例のバーベキュー交歓会のほか、地元大原の自治会長に
お越しいただいて、この地域にまつわるお話をうかがうということで、
従来、とかく疎遠になりがちであった校外学舎地元の方々と、新たな交流が
生まれることが期待されます。

今回の委員会で特筆すべきは、広報誌「たついけ」のプロットが
出来上がったことで、カラー印刷で見やすく、わかりやすい、簡潔な見本が
手元に提示されました。誌面の中の「たついけ数珠つなぎひと紹介」という
コーナーも面白く、この話題をきっかけに、学区内の人の輪が広がれば、
と思います。

この広報誌をいかにくまなく学区内の住民に配布し、興味を持って目を
通してもらうことが出来るかということが、これからの課題です。

本年は、龍池学区が八年に一度の時代祭への奉賛当番の年にも当たり、
自治会活動にとっては、多忙な秋となりそうです。


      

2014年8月8日金曜日

漱石「こころ」の中の、精神主義と物質主義

2014年8月7日付け朝日新聞朝刊、夏目漱石「こころ」100年ぶり連載、
先生の遺書(77)の中に、先生がKを評する次の文章があります。

「仏教の教義で養われた彼は、衣食住についてとかくの贅沢をいうのを
あたかも不道徳のように考えていました。なまじい昔の高僧だとか
聖徒だとかの伝を読んだ彼には、ややともすると精神と肉体とを
切り離したがる癖がありました。肉を鞭撻すれば霊の光輝が増すように
感ずる場合さえあったのかも知れません。」

精神主義も行き過ぎると偏狭なものになります。我が国の歴史上の
事象を振り返ると、第二次大戦の戦前、戦中には、このような考え方が
抑圧的に働き、人びとを一つの絶対的な価値観へと、集約して行った
ように感じられます。

これは明治維新後、西洋の圧倒的な産業資本、軍事力に対して、
個人の生活の質を犠牲にしても、富国強兵をスローガンに追いつき
追い越すことを目指すという、為政者の方針の延長線上の出来事とも
思われます。

大戦後は物質的窮乏の反動として経済的な豊かさが求められ、私たちは
アメリカの繁栄を手本に、高度な資本主義社会を築き上げました。

その結果今日では、ともすると物質的な価値観が何にも増して幅を
利かせ、人びとの疎外感を増幅しているように感じられます。

精神主義と物質主義、私たちの心に中で、ほど良い調和は実現しないの
でしょうか?

2014年8月6日水曜日

バオバブの花を見てきました。

京都府立植物園の観覧温室で、バオバブの花を見てきました。

バオバブの木というと、すぐに思い浮かぶのは、サン・テグジュベリの
「星の王子様」です。この本の中では、三本の立派なバオバブが、小さな
星の地表を埋め尽くしている挿絵が印象的です。

’90年に大阪で開催された「花の万博」でも、少し離れたところから見た、
孤高の姿でたたずむバオバブの木が、何にもまして記憶に残っています。

ずんぐりとしたその形状が独特で、まるで上下逆さまに地面に突き刺さり、
地中に向かって伸びているかのような、微動だにしない雰囲気があります。

さて、お目当てのバオバブの花は、思い描いていたよりもかわいく、
ーといっても立派ですがー白い花弁が電燈の笠のようにぶら下がって、何か
微笑ましい感じがありました。

バオバブの木は、観覧温室の砂漠サバンナ室にあるのですが、
温室内には他に、ジャングル室、ラン・アナナス室、高山植物室などがあり、
順路に沿って進んで行くと、各スペースによって温度、湿度がまったく
異なります。世界の自然環境の多様さを、ちょっと疑似体験した気分でした。

高山植物室はこの季節には心地よく、温室の外にでてもジャングル室と
変わりばえしない気温に、うんざりしました。

2014年8月3日日曜日

島田雅彦著「優しいサヨクのための嬉遊曲」を読んで

島田雅彦のデビュー作にして初期代表作です。

60年安保から70年安保闘争に続く時代、いわゆる政治の季節として、
左翼学生たちによって、一般市民も巻き込んで時の政権の
日米安保条約改定、延長を阻止すべく、激しい抵抗活動が行われました。

しかし70年を過ぎると、追い詰められた先鋭的な左翼活動家の組織が
無残な自壊を遂げ、それとともに学生の左翼運動も急速に衰えて行きます。

本書はそのような時代の、左翼的な問題意識を持つ大学生のサークルの
メンバーそれぞれの行状を、パロディをふんだんにまぶして描きます。

最早、切実に国の現状を変える目標もなく、大衆の支持もない彼らが、
時代錯誤という目に晒されながら、いかに自らの思想を行動や生活に
結び付けていくか?

ソ連の反体制活動家の支援活動は、膠着した現状を打破するために、
彼らにとってまさに打って付けの政治行動です。

彼らの活動は、冗談まじりにあくまで柔らかく、時には恋の誘惑にあっさり
宗旨替えし、消費社会に毒されて目的と手段が転倒します。

でも時代に流されて何も考えない、問題意識を持たない人間になるよりも、
その方がよほど良いのではないでしょうか?


柔軟な生活、思考活動の勧め。私には本書が、主人公たちの未熟さ、
浅はかさへの皮肉ではなく、彼らへの応援歌に読めました。

そしてもしそうであるなら、この小説は現代の硬直した私たちの社会への
問題提起にもなります。